費禕に警告を送る
張嶷は費禕が大将軍になったばかりの頃、本性のままに博愛精神を発揮し、帰順して間もない者まで信用をするのを見て、危ぶんでいました。
このため、文書を送ってこれを戒めています。
「昔、岑彭は軍兵を率いながら、来歙は節(軍の独自裁量権)を杖にしながら、ともに刺客によって殺害されました。
(どちらも後漢の祖・光武帝に仕えた武将)
いま、明将軍の地位は尊く、権限が重いのですから、過去の出来事を鏡にし、警戒なさってください」
しかし費禕は態度を改めず、このために張嶷が不安視した通り、魏の降伏者である郭脩によって暗殺されてしまいました。
諸葛瞻に手紙を送る
呉の太傅(皇帝の師)である諸葛恪は、はじめて魏軍を打ち破ると、そのまま魏を攻略しようとして大軍を動員しました。
一方で蜀の侍中である諸葛瞻は、諸葛亮の子で、諸葛恪の従弟でした。
このため、張嶷は諸葛瞻に手紙を出して、次のように述べています。
「東呉の君主(孫権)は崩御されたばかりで、皇帝はまことに幼くおわします。
太傅(諸葛恪)は幼主を委託され、重責を担われました。
これは容易にやり遂げられることではありません。
皇族として優れた才能を備えた周公ですら、なお管叔や蔡叔による流言の変事がありました。
霍光が任務を受けた時もまた、燕王旦らの陰謀がありました。
幸いにして、成王や昭帝の明察のおかげで、かろうじて災難を逃れています。
昔から常に、呉の君主は生殺与奪の権を臣下には委ねないと聞いています。
しかしこのたび、命が尽きようとする状況で、にわかに太傅を召し寄せ、後のことを託されました。
これはまことに憂うべき事態です。
それに加え、呉楚の者たちは荒々しく、軽はずみであると、昔の書物に記されています。
ところが太傅は幼帝の側を離れ、敵地に入れられるのです。
おそらく長期的な計略に基づく行動ではないでしょう。
東国は綱紀が粛然とし、上下が仲むつまじいといっても、百のうちで一つでも失敗があれば、聡明な人間でも予測しえないことが起こります。
過去の例によって今を判断するのなら、今は過去と同じことになります。
あなたが太傅に忠告をなさらなければ、いったい誰が言葉を尽くして忠告をするでしょうか。
軍を引きあげ農業を盛んにし、恩徳を施すように努めてから、数年のうちに東西で兵を挙げても、決して遅くありません。
願わくば、深くご高察くださいますように」
諸葛恪は結局、張嶷が危惧した通りに、敗戦した挙げ句に一族を皆殺しにされてしまいました。
張嶷はこのように、優れた見識と先を見通す能力を持っており、このために戦いに常に勝利することができたようです。
帰還に際して惜しまれる
張嶷は郡に15年も在任していましたが、これによって越巂はすっかりと平和になりました。
このため、たびたび帰還を願い出た結果、やがて召喚されて成都におもむくことになります。
すると異民族の者たちは張嶷を恋慕い、轂(馬車の車軸)にすがり、涙を流して悲しみました。
そして旄牛の村を通過する時には、村長が子どもを背負って迎えに出て、蜀郡との境界まで後を追ってきました。
連れだって張嶷に随行し、朝貢した頭目は百人以上に上っています。
このように、張嶷の統治がうまくいっていたことを示す出来事が、たくさん起きたのでした。
張嶷は都につくと、盪寇将軍に任命されます。
気ままで率直な性格だった
張嶷は激しい性格の持ち主で、士人のほとんどはその人柄に敬意を抱きました。
しかし気ままにふるまうことが多く、礼を軽んじることがあったので、それを理由にして悪口を言われることもありました。
車騎将軍の地位にあった夏候霸が張嶷に対し「あなたとはこれまで疎遠でしたが、旧知の人と同じように心をよせています。
どうかこの気持ちを知って下さい」と言いました。
すると張嶷は「私はまだあなたを理解していませんし、あなたはまだ私を理解なさっていません。
友情の大きな道はまだ遠くにあります。
それなのに、どうして心を寄せるとおっしゃるのですか。
願わくば、三年がたってから、改めてその言葉を言ってください」と返答しました。
これを聞くと、見識のある人たちは立派な態度だとして評価しています。
【次のページに続く▼】