北伐に従軍する
227年になると、趙雲は諸葛亮に従い、漢中に駐屯しました。
そして攻撃の準備が整うと、諸葛亮は翌228年に出撃し、涼州の奪取をはかります。
趙雲は別働隊を率いて箕谷へと向かい、そこで魏の将軍である曹真と対決しました。
趙雲はこのとき鄧芝とともに、本軍である諸葛亮が祁山に攻めこむための、陽動の役を務めています。
このために率いる兵士の数が少なく、曹真は大軍でしたので、敗北しました。
しかし軍兵をとりまとめて守りを固めたので、大事には至りませんでした。
この作戦は、はじめは順調に進んでいたのですが、馬謖が街亭で命令違反を犯し、このために失敗に終わります。
諸葛亮は自らを三階級の降格処分にして責任を取り、馬謖を処刑しました。
これにともなって参戦した将軍たちの多くが降格処分を受け、趙雲も鎮東将軍に位を下げられています。
(秩禄を下げられただけだという話もあります)
軍が乱れなかった理由
この戦いが終わってから、諸葛亮は趙雲とともに戦った鄧芝に対し、次のように質問をしました。
「街亭から軍が撤退する際に、指揮が乱れて兵がばらばらになったが、箕谷の兵が撤退するときには将兵がよくまとまっていた。これはどうしてか?」
鄧芝は「趙雲が自ら後詰めを務めましたので、軍需品を失わずにすみ、将兵はまとまりを失わないですんだのです」と答えました。
こうしたわけで、趙雲のところには軍需品の絹が残っていたのですが、諸葛亮は将兵に分け与えるように命じます。
すると趙雲は「負け戦だったのに、下賜があるのはよろしくありません。
この物資はすべて蔵に収め、十月になるまで取っておき、冬の支度品として将兵に下賜されますように」と述べました。
諸葛亮は趙雲の気配りを褒め、彼が言うとおりにしました。
このように、趙雲は常に物事の道理にかなった考え方をしていたのでした。

死去する
趙雲はこの戦いの翌229年に亡くなっています。
それからしばらく時が過ぎると、蜀では建国に功績があった臣下たちに、諡号が贈られるようになりました。
260年に関羽・張飛・馬超・黄忠・龐統に贈られると、その翌年には趙雲にも同じ措置が取られることになりました。
このとき劉禅は、次のような詔勅を出しています。
「趙雲は昔、先帝に随従し、功績はすでに顕著である。
朕は幼少の身をもって艱難を経験したが、彼の忠誠によってそれを切り抜けることができた。
諡号は大きな勲功を記すためのものだが、世間では趙雲に諡号を贈るのが当然のことだと言っている」
これに対し、姜維が賛同の意見を上奏し、どのような諡号を贈るのが適しているかを述べました。
「つつしんで諡号の規則を調べますに、柔順・賢明・慈愛・恩恵を有する者を『順』と称し、秩序だって仕事をし、災禍や動乱を鎮める者を『平』と称します。
ゆえに趙雲に順平候の諡号を賜るのが至当と存じます」
こうして趙雲は261年に順平候の諡号を追贈されました。
蜀の人々は、大変に名誉なことだとしてもてはやしました。
子供たち
趙雲の子の趙統が後を継ぎ、官位は虎賁中郎・督行領軍に上りました。
これは劉禅の身辺を守る、近衛兵の隊長の役割でした。
次男の趙広は牙門将となり、大将軍・姜維の副官として戦場に赴いています。
そして沓中の戦いで戦死しました。
趙雲評
三国志の著者・陳寿は次のように評しています。
「黄忠・趙雲がその勇猛さによって、ともに優れた武臣になったのは、灌嬰・夏侯嬰のともがらであろうか」
灌嬰と夏侯嬰はともに前漢の高祖・劉邦に仕えて功績のあった武将でした。
黄忠も趙雲は、どちらも義に厚く武に秀でた人物でしたので、彼らになぞらえられ、称賛を受けたのです。
趙雲の場合は、いくつかの挿話によって、武勇に秀でていたのに加え、深く物事を考えられる、賢さもあったことが伝わっています。
趙雲別伝
趙雲は挿話の多い人物なのですが、これは『趙雲別伝』という資料が伝わっているためです。
しかしこの書物は、趙家の家伝を改編したものではないかと言われており、どこまでが本当にあったことなのかはわかりにくくなっています。
この文章でもその多くを用いていますが、趙雲の人となりを伝える上では有用だと思い、採録しています。
長坂で劉禅を救ったり、益州攻略戦で武功を立てたり、北伐に参加したことは、正史に収録されています。
それ以外の挿話は、趙雲別伝によるものです。

