曹爽の死後も地位を保つ
二四九年になると、やがて司馬懿がクーデターを起こし、曹爽を処刑して魏の権力を掌握します。
すると孫資は侍中として起用され、ふたたび中書令にもなりました。
かつて司馬懿を推薦した経緯がありましたので、権力者が変わっても立場が保たれていたようです。
この翌二五〇年に劉放は亡くなり、敬候とおくりなされました。
孫資はいったん官を辞して家に戻りましたが、朝廷から出向いて驃騎将軍に任命し、侍中に転任させています。
孫資は二五一年に亡くなり、貞候とおくりなされました。
劉放と孫資の性質
このようにして、劉放と孫資は常に皇帝の側にあり、魏の政情に大きな影響を及ぼす立場にありました。
三国志の著者である陳寿は両者について、次のように書いています。
「劉放は才能では孫資にまさっていたが、品性ではおよばなかった。
劉放と孫資は主上(皇帝)の気持ちに寄りそい、従順で、物事の是非をはっきりと意見したことはなかった。
辛毗を抑えて王思を助けたため、世間から批判されることになった。
しかし、時には臣下たちの諫言を活用し、主張が正しければ意見が通るようにと支援した。
時には、ひそかに物事の長所と短所を弁じ、必ずしも阿諛追従ばかりをしていたわけではないという」
このようにして、劉放らは意見をはっきりさせて皇帝の機嫌を損なうことがないように努めつつ、なるべく正しい意見が通るようにと働きかけることもしていたようです。
そのあたりの立ち回りが、彼らが長年に渡って魏の政治の中枢に関わりつつ、排除されることなく、高い地位を保てた要因となっていたのでしょう。
これといった目立った功績がなくとも、出世を遂げ、一生を安泰に終えることができる手段を身につけていたのです。
劉放の子の劉許は、父と同じように文章で名を表し、越騎校尉になりました。
孫資の子の孫宏は南陽太守になりましたが、その子孫も太守や将軍になり、栄えています。
劉放・孫資評
陳寿は劉放と孫資を、次のように評しています。
「劉放は文章により、孫資は真面目さと慎み深さによって、詔令の発布を司った。
権力は世に知られていたが、それにふさわしいだけの実力がなかった。
このため、彼らの阿諛を非難する声は、彼らの実質よりも激しいものとなった」
劉放も孫資も、悪人というほどではなかったようですが、握っていた権力にふさわしいほどの実力はなかったので、魏にとって真に有用な人物だとは言えなかったようです。
こういった者たちを重用していたことが、魏の勢力の停滞につながり、やがては滅亡が導かれる原因となりました。