羽柴秀吉はどうして清洲会議や賤ヶ岳の戦いで、柴田勝家に勝利できたのか?

スポンサーリンク

勝家の撤退命令

勝家は秀吉の前線を崩せればそれで十分だと考えており、防御態勢を再構築するため、盛政に撤退命令を出します。

しかし勝利におごり、さらに戦果を拡大しようと考えたのか、盛政は勝家からの命令に従わず、敵陣の側に留まり続けました。

勝家が重ねて撤退命令を出すものの、盛政は耳を貸さず、このために勝家は危機を迎えることになります。

勝家の軍勢が3万なのに対し、秀吉は5万であり、数に劣る自軍が防御をおろそかにしては勝利がおぼつかないことを、歴戦の勝家はよく理解していました。

このため、盛政の命令無視が敗北を招き寄せるかもしれないと、勝家は予感したことでしょう。

丹羽長秀の参戦

丹羽長秀はこの時、若狭を離れて琵琶湖を渡っていましたが、味方する秀吉の前線が崩されたと知り、家臣たちの反対を押し切って参戦することを決意します。

長秀もまた、信長に古くから仕えた歴戦の武将であり、ここで介入しなければ、秀吉が危機に陥る可能性が高いと、的確に判断したのです。

長秀は2千の手勢を率いて上陸すると、撤退しかけていた秀吉軍の桑山重晴と遭遇し、これと合流して、賤ヶ岳砦を奪取しようとしていた盛政の軍勢へと攻めかかります。

そして長秀は盛政隊を撃退し、奪われかけていた賤ヶ岳砦を確保しました。

こうして崩れかけた秀吉軍の前線は回復され、状況は五分に戻ります。

美濃大返し

盛政が大岩山砦を攻め落とした、という情報はすぐに秀吉に知らされましたが、これを聞いた秀吉は「天下はわしが取った!」と言って喜びました。

このことから、秀吉は自分が近江から離れれば、勝家は前線に攻撃をしかけて陣形を崩すだろうと、予測していたのだと思われます。

そしてこの時に攻撃を任されるのは最も勇猛な盛政であり、一度突出したら、容易に撤退しないであろうことも見越していたのかもしれません。

秀吉はこの好機を逃さぬため、賤ヶ岳への道筋にある村々に、炊き出しと松明を灯す用意を命じ、暗くなっても継続して走行できる状況をこしらえました。

言わば、マラソンにおける補給所の準備をさせたことになります。

そして配下の軍団に、移動しながら食事を取らせつつ、休みなく行軍させました。

この結果、秀吉の軍勢は午後2時に大垣を出発し、午後7時には50km以上を走破して、賤ヶ岳付近にまで到着しています。

この急行軍によって、大岩山に野営していた盛政の部隊は秀吉軍に包囲され、危機に陥りました。

盛政の撤退と、賤ヶ岳の激戦

翌日の未明になると、秀吉軍は盛政隊への攻撃を開始します。

このため、盛政は追撃を受けながら撤退をしなければならないという、困難な状況に陥ります。

しかし盛政は秀吉軍に追いすがられながらも、巧みな指揮で部隊の崩壊を防ぎつつ、他の部隊と合流して勝家軍の防御陣形を元に戻そうとしました。

このあたりの戦いぶりを見るに、盛政は非常に優れた武将であったことがうかがえます。

秀吉は盛政隊が容易に崩れないことを悟り、標的を変えて柴田勝政(勝家の養子)の部隊に攻撃を集中することにしました。

すると、この秀吉軍の変化によって余裕ができた盛政が柴田勝政の救援に入り、激戦が展開される状況となります。

前田利家の撤退

この時点ではまだ戦いの帰趨ははっきりとしていませんでしたが、激戦の最中に突如として、勝家軍の一角を担っていた前田利家隊5千が戦線を離脱し、無断で撤退を始めてしまいます。

そしてこれに連鎖するようにして、金森長近や不破勝光も退却してしまったため、勝家軍の戦力は大幅に減少しました。

この時に前田利家が撤退をしたのは、もとより自分の子を二人も養子として与えるほどに秀吉と親しい間柄であり、彼と戦うことを避けたかった、という理由がありました。

一方で勝家とも長年、上司と部下として付き合ってきた関係があり、この板挟みとなった結果、戦場を放棄する、という行動に出たのだと考えられます。

この時に撤退した三将は、いずれも先の和睦交渉の際に秀吉の元を訪れており、はっきりと寝返りの約束はしないまでも、「もしも自分と戦わずにいてくれれば、決して悪いようにはしない」という程度の示唆は、秀吉から受けていたものと思われます。

いずれにしても、この前田利家らの撤退によって、一挙に秀吉側の有利に戦況が傾きました。

【次のページに続く▼】