乙論
乙論では、次のように述べています。
「司馬懿は、曹仲(先代の明帝)が後事を自分一人に託さなかったことを不満に思っていた。
だとしても、いったい曹爽に何の関係があるだろうか。
彼は権力を独り占めにすることができなかったので、ひそかに曹爽の過失を探し出し、それを口実にしたのだ。
忠告をして諭すことをせず、一朝にして殺戮を行い、曹爽の無警戒につけ込んだ。
国家を治め、根本を重視する人物の所業だとは、とても言えない。
もしも曹爽に本当に反逆の心があったのならば、大逆の準備はすでに整っていたはずだ。
司馬懿は曹爽らの計画を支援するかのように、墓参りのために外出する芳(皇帝)の身柄を曹爽らに委ねておき、自らは都の門を閉ざし、それから挙兵した。
そのような状況で芳に迫ったのだから、芳の身柄が、絶対に安全だとは言えなかった。
(費禕はここで、曹爽が本当に謀反を企んでいたのなら、彼らの手もとにいた芳が殺害されていたかもしれないことを指摘しています)
これは主君に十分に配慮した、忠臣の態度だとは言えない。
推し量るに、曹爽が手もとにいた芳に気概を加えなかったことから、大悪(反逆の意志)がなかったのは明らかである。
もしも司馬懿が曹爽の豪奢・僭上を理由にし、彼の位を廃したり、刑罰に処すのであれば、それは妥当であろう。
しかし、乳飲み子までを殺害し、非道の名をかぶせ、曹真の血統を絶やし、魏王室の婿にあたる何晏まで一緒に殺害しているのは、司馬懿の僭上の態度と、刑の乱用を示しており、妥当さを欠いている」
このようにして、費禕は司馬懿の行動を批判したのでした。
この後、魏では曹氏一族の力が急速に弱まっていき、司馬懿の一族が権力を掌握することになります。
こうして蜀・魏・呉の三国時代にも、終焉が見えてきたのでした。
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