夏候惇は曹操に仕え、重んじられた人物です。
戦場で左目を射られて失ったことから、隻眼の武将として知られています。
演義では猛将というイメージをつけられていますが、史実では戦いは不得意で、内政や軍の統括といった面で実績を残しています。
曹操からは尊重され、臣下として扱わない特別待遇まで受けていました。
これは夏候惇の篤実な人柄が、それだけ評価されていたからなのだと思われます。
この文章では、そんな夏侯惇の生涯について書いています。
沛国譙県に生まれる
夏侯惇は字を元襄といいます。
沛国譙県の出身で、生年は不明となっています。
前漢の建国の功臣である夏侯嬰の子孫で、名家の出身だったのだと言えます。
若い頃から学問を好んでおり、十四の時に教師について学んでいました。
しかしその教師を侮辱した者がいたので、夏侯惇は怒ってその者を殺害しています。
この事件によって、夏侯惇は気性の荒い若者だとして、まず有名になりました。
曹操の旗揚げ以後、側近となる
曹操の父は夏侯氏の出身で、曹氏の養子になったと言われています。
このため、夏侯惇と曹操は血縁関係にあり、子供の頃から親しかったようです。
なので曹操が189年に旗揚げをすると、すぐに副官として仕え、補佐をするようになりました。
以後は生涯に渡って曹操を支え続けています。
曹操が行奮武将軍になると、夏候惇は折衝校尉(部隊長)に昇進し、別働隊を率いて白馬に駐屯しました。
そして兗州の東郡太守(長官)にも就任し、軍事と行政の両方で、重要な役割を担っています。
しかしながら、夏候惇は軍の指揮はさほど得意ではなく、この後で重大な危機に陥ることになります。
呂布に曹操の本拠を奪われる
やがて曹操は、陶謙を討つために徐州に遠征しますが、その間、本拠の濮陽は夏候惇が守っていました。
すると曹操の部下である張邈が裏切り、呂布を引き込んで兗州の大半を占拠します。
このため、夏候惇は曹操の家族を保護する目的で、鄄城に赴きました。
夏候惇はその途中で呂布の軍勢にばったりと遭遇し、不意に戦うはめになります。
呂布は夏候惇が出撃しているのを知ると、すぐに撤退し、回り込んで濮陽を占拠しました。
このあたりの判断の速さは、さすが呂布といった感じですが、こうして夏侯惇は兗州の守備に失敗してしまいます。
守将自らが本拠を離れて出撃をしていたのは、いささか軽率だったと言えるでしょう。
呂布に捕らわれ、人質となる
呂布はそれから改めて出撃し、夏候惇の輸送隊を襲撃して物資を奪いました。
そのうえで武将を派遣して降伏すると見せかけ、夏候惇を罠にはめて捕縛します。
このように、夏候惇は呂布にいいようにされてしまったのでした。
そして呂布は夏候惇の部下たちに、「彼の命がおしければ財宝を差し出せ」と要求します。
呂布は夏候惇から、軍需物資も財産をも奪うつもりだったのです。
これによって夏候惇の軍勢は混乱におちいりましたが、副官の韓浩がとりまとめ、何とか落ち着きを取り戻させています。
危ういところを救出される
この時代の国法では、要人が人質に取られて脅迫されたばあい、人質もろとも犯人を殺害することになっていました。
このため、韓浩は兵を引きつれて夏候惇が捕縛されている場所へ向かい、夏候惇もろとも賊を殺害する決意を固めます。
韓浩は涙ながらに「国法ですからどうしようもありません」と夏候惇に謝ってから、兵士たちに賊を斬らせようとします。
すると賊たちは命を惜しみ、「私たちはただ必要なものを手に入れようとしただけです」と言い訳をしつつ、頭を地面にたたきつけて降参したので、夏候惇は殺害されずにすみました。
なお、韓浩は捕らえた賊たちを、すべて斬り捨てさせています。
こうして夏候惇が救出されると、曹操は韓浩の処置を褒めたたえます。
そして人質事件が発生した場合には、人質を犯人とともに討つようにと、改めて法令に記させました。
このようにして、夏候惇は危ういところを助りましたが、将としては重大な失敗をしたのだと言えます。
流れ矢に当たって左目を負傷する
夏侯惇は曹操が呂布の討伐に出ると、そのお供をして出陣しました。
しかし、そこで流れ矢に当たって左目を負傷してしまいます。
ところで、夏候惇の従弟の夏侯淵もまた、曹操に仕えていました。
二人は似ていたようで、これ以後、夏侯惇は「盲夏侯」と軍中で呼ばれ、その名で夏侯淵と区別されます。
夏侯惇はこれを大変に嫌がり、鏡を見るたびに腹を立て、地面にたたきつけました。
この挿話によって、「隻眼の猛将」というイメージが夏侯惇につくようになります。
しかし実際の夏侯惇は、呂布に追われた劉備を救援する際に、呂布配下の高順と戦って敗れるなどしており、前線の指揮は得意ではありませんでした。
演義では豪傑として描かれていますが、実際には内政を得意としていました。
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