夏候惇 曹操から友人であることを望まれた、忠良な武将の生涯

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干ばつとイナゴに対処する

曹操が呂布から兗州を奪還すると、夏侯惇は陳留と済陰せいいんの太守となり、建武将軍に昇進するなど、曹操によって地位を高められます。

すると間もなく、大干ばつとイナゴの虫害が発生し、曹操軍は深刻な食糧不足に陥りました。

このために夏侯惇は農地の復興に取り組み、河の流れを制御するために堤防を築きます。

そして自ら土をかついで働き、将校や士卒にも稲を植えさせて、食糧の増産をはかりました。

この結果、餓死をせずにすんだ民衆が多くなり、夏侯惇は大変に感謝をされています。

河南尹となり、やがて専行権も与えられる

こうした働きがあったことから、夏侯惇は河南尹かなんいんに任命されます。

これは首都である洛陽らくよう周辺の行政を担当する、重要な役割でした。

現代で言えば都知事にあたります。

農地や市場の管理、そして盗賊の取り締まりも行い、長い時間をかけて民の生活を向上させていくのがその任務です。

夏侯惇はこれを適切にやりこなし、ますます評価を高めていきます。

曹操が袁紹と、その子供たちを討った際には後詰めを務め、戦いが終わると伏波ふくは将軍に昇進しています。

そして河南尹の地位はそのままで、法令の拘束を受けず、自分の判断で適切な処置をとることが許されました。

夏侯惇はそれほど曹操から信頼されており、それに応えられる統治を行っていたのでした。

後に洛陽が首都に復帰する

この時期、洛陽は董卓の略奪や放火の被害にあい、荒れ果てていたので、曹操は許に都を移していました。

ですので夏侯惇は人口が激減し、犯罪が横行するような困難な地域を担当し、その再興に力を尽くしたのです。

後に曹丕が魏を建国すると、再び洛陽が首都になっており、復興が進んでいたことがわかります。

この結果から、記録は乏しいものの、夏侯惇の治績が優れたものだったことが証明されています。

富裕になるも、贅沢はせず

207年になると、それまでの働きによって領邑りょうゆうを1700戸加増され、2500戸を所有するようになっています。

これだけの家から税を取り立てて収入が得られるようになりましたので、夏侯惇は富裕になりました。

しかし、夏侯惇は清潔で慎ましやかで、余分な財貨がある場合には、いつも人々に分け与え、財産を作ろうとはしませんでした。

こういったところが、夏侯惇が曹操から信頼を受け、諸将からも慕われた要因になっているのでしょう。

夏候惇は徳のある人柄を持っていたのだと言えます。

劉備への攻撃には失敗するも、南方の総司令官となる

夏侯惇はけい州北部に駐屯する、劉備への攻撃を担当したことがありました。

しかし劉備に撃退され、目的を果たせませんでした。

その後、216年になると、曹操の孫権征伐に随従します。

そこからの帰還の際に、二十六軍を指揮する総司令官の地位に任命され、居巣きょそうに駐屯するようになりました。

この時に張遼などを部下にしています。

自ら指揮をとるのは不得意でも、将軍たちを束ねる地位には向いていると、曹操は判断したのでしょう。

曹操は楽人や歌妓を夏侯惇に与え、「この程度の報償は、将軍には当然のことである」と布告を出しています。

曹操に魏国の地位を与えるようにと求める

曹操は216年に魏王に就任し、後漢の中で、半ば独立した地位につきました。

すると曹操の臣下たちはみな魏国の官職に就任したのですが、夏侯惇だけは後漢の将軍のままでした。

これは曹操が夏侯惇に対し「不臣ふしんの礼」(臣下として扱わない特別待遇)を与えたことの表れでした。

曹操も夏侯惇も、ともに後漢の臣下であれば、夏侯惇は曹操の臣下ではなく、対等な立場にあることになるからです。

しかし夏侯惇は、「自分はそれにふさわしい人間ではない」と主張します。

曹操は「最高の扱いは、臣下を先生として待遇することであり、次は臣下を友人として待遇することだと言う。とるに足らぬ魏などという国が、どうして君を臣下として扱えようか」と言って、そのままにさせようとしました。

しかし夏侯惇が強く求めたため、やむなく魏の前将軍に任命しています。

こうして夏侯惇は身分をはっきりさせたのですが、曹操は夏侯惇をあくまで友人として扱いたかったようです。

身分が高まると、横に並べる人間が少なくなっていきますが、ゆえに曹操は夏候惇には若い頃と同じように、友人のままでいてほしいと願ったのかもしれません。

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