曹操の特別扱い
曹操は出陣した際に、夏侯惇を召し寄せて同じ車に乗って出かけ、特別に親愛の情を示し、寝室に出入りすることも許可していました。
他の諸将たちは誰もこのような待遇を受けておらず、夏侯惇だけが特別だったのです。
そのような関係ですと、主君におもねる佞臣のように見られる場合もあり、夏侯惇にとっても、曹操にとってもよくないことでした。
夏侯惇は曹操の好意に甘えるのはよくないと考えており、そのためにあえて魏の官位を求め、主従のけじめをつけることにしたのだと思われます。
夏候惇は清廉で、かつ曹操に忠実で、能力よりも、その点こそが最も評価されていたのかもしれません。
戦乱の世にあって、裏切りが横行する時代には、忠実であるということには、大きな価値がありました。
大将軍になるも、間もなく死去する
その後、220年に曹操が死去すると、子の曹丕が後を継ぎました。
曹丕は皇帝になって魏王朝を開くと、夏侯惇を大将軍に任命します。
これによって夏候惇は魏軍の頂点に立ちましたが、しかし間もなく、曹操の後を追うようにして亡くなっています。
忠候と諡されました。
夏候惇に相応しい号だったと言えるでしょう。
夏候惇の死後は、子の夏候充が後を継いでいます。
曹丕は夏候惇の功績を高く評価し、領邑のうちの千戸を分割し、七人の息子と二人の孫に与え、みな関内候の爵位を賜っています。
その後は夏候廙、夏候劭と、位が継承されていっています。
夏候惇評
三国志の著者・陳寿は「夏候氏と曹氏は代々姻戚関係にあった。それゆえ、夏候惇らはいずれも皇室の一族として、高官となって重んじられ、君主を補佐して勲功を立てた」と評しています。
夏候惇は軍功はないものの、常に重んじられていることから、曹操軍を支えるための内務的な働きが多かったのではないかと思われます。
そして地位が上がっても私利を求めず、曹操に忠実なままでしたので、地位を高めやすかったのでしょう。
曹操から一族扱いをされていたこともあり、この結果として、臣下の中では最も尊重された存在となりました。
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