郭嘉 神のごとき智謀を備え、曹操の理解者だった軍師の生涯

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郭嘉かくかは曹操に仕えて活躍した軍師です。

呂布や袁氏との戦いにおいて優れた策を立て、曹操を勝利に導きました。

情勢の見通しが常に的確で、孫策の死を予言したことでも知られています。

曹操は郭嘉に後事を託すつもりでしたが、若くして亡くなったために、果たすことはできませんでした。

この文章では、そんな郭嘉の生涯を書いています。

郭嘉
【清代に描かれた郭嘉の肖像】

潁川に生まれる

郭嘉はあざな奉孝ほうこうといい、州の潁川えいせん郡、陽翟ようてき県の出身です。

生年は170年でした。

郭嘉が成人したころには、後漢はすでに末期となっており、天下はおおいに乱れようとしていました。

このため、郭嘉はすぐに世に出ようとはせず、自分の名や事跡を世間からくらまし、その一方で英傑たちとのみ交流を持ちました。

俗世間とは付き合わなかったので、当時の人々は、ほとんど郭嘉の存在を知りませんでした。

ただ見識を備えた者たちだけが郭嘉を知り、評価していたのです。

二十歳の時に司空しくう(大臣)の役所に召し出されていますので、一応は朝廷との関係も持っていたようです。

袁紹の元を訪れる

189年に董卓が台頭すると、これに反発して各地で群雄が割拠し、戦乱の時代になりました。

やがて郭嘉は北方に向かい、群雄の中で最大の実力を備えた袁紹に面会しました。

そして袁紹の人柄を観察してから、袁紹の謀臣である辛評しんひょう郭図かくとに向かってこう述べます。

「知恵がある者は、主君の人物をはっきりと見きわめようとするものです。

それゆえに彼らの行為は安全で確実なものとなり、功業や名誉を打ち立てることができます。

袁公(袁紹)は人にへりくだった周公(古代の宰相)の態度をまねなさろうとしておられますが、人物を用いるための機微を理解していません。

色々なことに取り組んではおられますが、肝心なところが抜けていることが多く、策略を好んではいるものの、決断力に欠けています。

このため、袁公に協力して天下の苦難を救い、王者の事業を達成しようと思っても、なかなか難しいでしょう」

このように述べてから、郭嘉は袁紹の元を立ち去っています。

郭嘉はこのように、はっきりとものを言う性格でした。

なお、その後も袁氏に仕え続けた辛評は後に消息不明となり、郭図は処刑され、郭嘉の見立てが正しかったことが証明されています。

荀彧の推薦を受ける

郭嘉と同郷の、頴川の戯志才ぎしさいは策略に優れており、曹操によってその才能を評価されていました。

しかし早くに亡くなってしまいます。

このため曹操は腹心の荀彧に手紙を送り、こう伝えました。

「戯志才が亡くなってからは、計略を相談できる相手がいない。

汝南じょなんや潁川は優れた人物の多いところだが、誰か彼の後を継いでくれるものはいないだろうか」

荀彧はこれを受け、旧知の郭嘉を曹操に推薦しました。

荀彧もまた、潁川の出身でしたので、郭嘉と交流があったようです。

一度話しただけで意気投合する

曹操は郭嘉を召し出すと、天下のことを議論します。

それが終わると、曹操はこう述べました。

「わしが取り組んでいる大事業を完成させてくれるのは、間違いなくこの男だろう」

郭嘉もまた曹操との話を終えると、喜んでこう言いました。

「曹公こそが誠に私の主君である」

このように一度話をしただけで、曹操と郭嘉はすっかりと意気投合したのでした。

曹操はさっそく、郭嘉を司空軍祭酒ぐんさいしゅに取り立て、参謀に任命しました。

【次のページに続く▼】