曹操の上奏
郭嘉の死後、曹操は上奏を奉り、次のように述べました。
「郭嘉が征伐に従い始めてから11年が経過しましたが、重大な論議や、敵を前にした際に、常に的確に変化に対処しました。
私の策がまだ定まらぬうちに、郭嘉はやすやすと処置を考えることができました。
天下を平定する過程において、彼の計略の功績は、高く評価されるべきです。
不幸にして短命で、仕事を完成することができませんでした。
郭嘉の勲功は、とても忘れることはできません。
ゆえに八百戸を加増し、前の分と合わせて一千戸とすべきだと存じます」
死後に領地が五倍になったわけですので、破格の待遇だったと言えます。
郭嘉の不在を嘆く
やがて曹操は荊州を征服しましたが、孫権と劉備の連合軍に赤壁で撃退され、やむなく北方に帰還しました。
この戦いでは疫病が流行し、軍船を敵に焼き払われ、大きな被害を受けています。
敗北した後、曹操は嘆息しながら言いました。
「郭奉孝がいれば、わしをこんな目に合わせることはなかったろうに」
実際のところ、この時の曹操の進軍には手抜かりが多かったのですが、郭嘉が存命であればそれを戒め、被害を受けないようにしていたことでしょう。
赤壁の戦いは、郭嘉の死の翌年の出来事でした。
品行はよくなかった
まだ郭嘉が生きていた頃、曹操の属官である陳羣は、郭嘉の品行が修まらないと批判し、たびたび朝廷で訴えました。
しかし郭嘉は常に平然とし、意に介することはありませんでした。
その態度を見て、曹操はさらに郭嘉を尊重しましたが、一方で陳羣も公正に物事を見ているとして、評価をしました。
郭嘉は曹操のお気に入りの配下でしたが、それを恐れずに批判をしたことで、陳羣は評価されたのだと思われます。
このように、郭嘉は智謀は著しく優れていましたが、他人の目から自分がどう映るかには、無頓着な人だったようです。
世間に知られることにも興味がなかったようですし、隠者の風貌を具えた人物だったのでしょう。
後に子の郭奕が太子文学(皇太子に学問を教える役目)になりましたが、早くに亡くなっています。
その後は郭深、郭猟と爵位が引きつがれています。
曹操の追慕
曹操は荀彧に手紙を送り、郭嘉のことを思い出して悼み、こう述べています。
「郭嘉は40に満たない年だったが、11年間も一緒に苦労し、苦しみや悩みは、全てともに受けた。
彼が道理に明るく、様々な事態に対処するにあたり、全く行き詰まることがないので、後事を彼に託そうと思っていた。
突如として彼を失うことになろうとは思いもかけず、悲痛な思いに心をいたませている。
今、上奏をしてその子に加増をし、一千戸にしてやった。
しかし死者に対して、何の益があるだろう。
追憶の感情は募るばかりだ。
奉孝はわしを理解していた男だった。
天下にあまた人がおろうとも、理解してくれる者は少ないものだ。
それについても、全く残念でならない。
なんとしたことだろうか。
なんとしたことだろうか」
人を超えていたと評価する
また別の手紙でも、荀彧にこう述べています。
「奉孝に対する追惜の念は、心を離れようとしない。
彼が下した時務や軍事に対する判断は、はるかに人を超えるものであった。
人間は病気を恐れるものだが、南方に流行病があることから、常に彼は『私が南方に行けば、生きて帰れないだろう』と言っていた。
それなのに一緒に計略を論じると、『先に(南方の)荊州を平定するのが妥当です』と言っていた。
これはその判断が真心から出ていることの証明であり、功業を建てるために、その定命をも放棄するつもりだったのだ。
彼が人に仕える心は、これほど誠実なものだった。
どうして忘れることができよう」
郭嘉評
三国志の著者・陳寿は郭嘉を次のように評しています。
「郭嘉らは、才能や知力に優れた世の奇士たちである。
清潔で徳をおさめた点では荀攸と異なっているが、計略を立てる能力においては、彼らは仲間であると言える」
郭嘉は品行がよくなかった、という話がありますが、一方において曹操に対しては忠実で、誠意を持って仕えており、そういった意味では一定の徳を備えた人物だったと言えます。
もしも郭嘉が長命であれば、曹操は天下を統一できていたかもしれず、この時代において、大きな影響力を持った人物の一人でした。
曹操個人としては、頼りになる助言者にして理解者を失ってしまったわけで、郭嘉の死後に精彩を欠くようになった様子を見るに、生前の存在の大きさがうかがい知れます。
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