孫策の死を予測する
曹操が袁紹と正面から対決するようになった頃、江東では孫策が勢力を伸ばし、曹操の脅威となっていました。
孫策は、曹操と袁紹が官渡で対戦していると知ると、長江を渡って北に向かい、許都を襲撃して皇帝を奪おうと計画します。
人々はこれを聞くと、みな孫策を恐れましたが、郭嘉だけは次のように述べました。
「孫策はまだ江東を併呑したばかりですが、その過程で多くの英雄豪傑たちを殺害しています。
彼らはみな、部下に死力を尽くさせるほどの力を持った者たちでした。
ゆえに主を失った部下たちは、孫策への復讐を考えているはずですが、孫策はそれを軽く考え、警戒しておりません。
ですので、彼が百万の軍勢を持っていたとしても、野原をただ一人で歩いているのと変わりがありません。
もしも刺客が突然襲撃したならば、一人でも孫策をしとめることができるでしょう。
私の観測によりますと、孫策は必ず匹夫(名もなきただの男)の手にかかって死ぬと思われます」
すると孫策は長江を前にして、かつて彼が殺害した、許貢の食客の手にかかって殺害されました。
郭嘉が考えた通り、孫策は刺客を警戒せず、狩猟の際に一人になったところを狙われ、致命傷を負わされたのでした。
郭嘉の予測は常に的確であり、その慧眼は恐るべきものだったと言えます。
郭嘉は各地の情勢や人物の情報を集め、それを分析した上で予測を立てる能力が、誰よりも優れていたのでした。
袁譚と袁尚の討伐に意見を述べる
やがて曹操が袁紹との対決に勝利すると、袁紹は本拠に撤退した後、病にかかって死去しました。
その後、郭嘉は曹操にしたがって袁紹の子・袁譚(長男)や袁尚(三男)と戦い、たびたび勝利を収めます。
すると将軍たちは、勝ちに乗じて彼らを攻め滅ぼすべきだと考えました。
しかし郭嘉はこれに反対し、次のように述べます。
「袁紹はこの二人の男子を可愛がっていましたが、どちらを後継者にするかを定めませんでした。
郭図と逢紀がそれぞれに彼らの謀臣となっていますが、必ず争いが発生し、分裂するでしょう。
性急に攻め立てれば彼らは助け合い、攻撃を緩めれば争い合うようになります。
ですので今は南の荊州に向かい、劉表を征伐するふりをして、彼らの心が変わるのを待つほうがよろしいでしょう。
そして変化が発生し、彼らが争い合う中で攻撃をしかければ、一挙に北方を平定することができます」
これを受け、曹操はまたしても「もっともだ」と述べて郭嘉の意見に賛成し、南征を行いました。
袁尚を破る
軍が西平に着いた頃、郭嘉が予測した通り、袁譚と袁尚は主導権を巡って争いを始めます。
やがて袁譚は袁尚の軍に打ち破られ、敗走して平原に撤退しました。
そして窮地に陥ったため、参謀の辛毗を派遣して曹操に降伏を申し出ます。
曹操はこれを受け入れ、袁尚を打ち破って袁譚を救い出しました。
そして郭嘉は曹操に従い、冀州の州都である鄴を平定しています。
袁譚も打ち破って冀州を平定する
袁尚が敗れると、袁譚は北方を自分ひとりの物にしようと画策するようになり、曹操に背きました。
なので曹操はこれを討伐し、冀州の完全な平定に成功しています。
こうして袁譚・袁尚兄弟を争わせ、彼らの分裂を利用して北方を平定するという郭嘉の策が、成功したのでした。
この功績によって、郭嘉は洧陽亭候の爵位と、領邑二百戸を与えられています。
なお、辛評が消息不明となり、郭図が処刑されたのはこの時でした。
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