楚王となる
韓信は戦後になると、斉にかわって楚の王に任命されます。
楚は韓信の故郷ですし、これまでの覇王であった項羽が治めていた土地ですので、栄転であるといえます。
しかし斉よりは城の数が少なく、指揮できる軍の数が減らされていました。
栄転ではあるものの、その戦力は削る、という措置であったことがうかがえます。
故郷の淮陰に凱旋した韓信は、食い詰めていた時に食べ物を与えてくれた老婆に、使い切れないほどの大金を与えます。
そして自分を脅して股をくぐらせたかつての少年を呼び出し「お前を殺すのは簡単だったが、それで何を得られるわけでもない。我慢をして股をくぐったからここまで出世できたのだ」と告げます。
そして自分の今の力を示すように、彼に中尉という官職を与えました。
この人物がどう反応したのかまでは伝わっていませんが、韓信に呼び出された時には、処罰されはしないかと冷や冷やしていたことでしょう。
また、途中まで自分の面倒を見ていた亭長には、「世話をするなら最後まで面倒をみよ」と告げ、わずかな金銭を与えただけでした。
この頃が韓信の生涯の絶頂期でしたが、しかし楚王の地位はわずか一年で剥奪されてしまいます。
淮陰侯に格下げされる
項羽の死の翌年、同郷の友人で、項羽配下の将軍であった鍾離昧を匿っていたことから、韓信に謀反の疑いがあると訴え出る者がいました。
これには韓信の軍才から生じる恐れと、短期間で出世したことに対する妬みの感情などが原因となったようです。
この疑惑に弁解するため、韓信は鍾離昧に自害を促します。
この時、鍾離昧は韓信に「次は貴公の番ですよ」と言い残して自害します。
鍾離昧の予言通り、その首を持って劉邦の元に出頭した韓信は捕らえられ、楚王から淮陰侯に格下げされてしまいます。
これによって韓信は意のままに動かせる軍隊を失い、いくらかの領地を持つだけの、ただの諸侯になってしまいました。
これ以降の韓信は屋敷にこもって暮らすようになり、劉邦への忠誠心も失ってしまいます。
自分のおかげで天下が取れたのに、この仕打ちはありえない、と韓信は憤ったことでしょう。
謀反を企むも捕縛され、処刑される
それから5年が過ぎ、韓信は本当に劉邦に対して謀反を起こします。
しかしこの時には、それを成功させる条件はとうに失われていました。
計画を下僕に密告され、韓信の計画は劉邦の妻・呂氏の知るところとなります。
この時、劉邦は韓信の策略によって都から反乱の鎮圧のために遠征に出ており、相国(現代で言う首相)の地位にあった蕭何が、この事態に対応します。
蕭何はかつて韓信が大将軍に取り立てられるきっかけを作った人物であり、韓信は恩義を感じていました。
韓信はその蕭何の計略によって宮殿におびき出され、そして捕縛されてしまいます。
策に長じた韓信でしたが、蕭何には恩もあり信用していたため、計略に乗せられてしまったのです。
そしてすぐに宮廷内で処刑されました。
韓信は死の間際に「蒯通の勧めに従わなかったことが心残りだ」と言い残しています。
もしも斉王の時代に独立していれば、このような結末を迎えることはなかったでしょう。
享年は35でした。
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