小早川隆景 「毛利の両川」として、元就や輝元を支えた名将の生涯について

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その後の小早川氏

一方で、小早川氏を継いだ秀秋は、関ヶ原の戦いで最初は西軍に味方するものの、やがて家康に寝返り、戦いの決着をつける大きな働きをみせました。

このため、戦後に備前・美作・備中(岡山県一帯)にまたがる55万石という大きな領地を与えられています。

この結果、小早川氏の領地は毛利氏を上回ることになりました。

しかし秀秋はかねてより酒に溺れる生活を送っており、1602年にはそれが原因で内蔵を壊し、21才で急死してしまいます。

秀秋には子がいなかったため、小早川氏は徳川氏によって領地を没収され、断絶しました。

別家を立てた秀包は西軍に味方したため、こちらも改易されており、翌年には秀包が病死したため、小早川の姓を持つ大名家は消滅しています。

しかし、これから260年後、明治維新が成った後に毛利氏が再興を願い出て認められ、毛利氏の当主の三男が、養子として小早川家を再興しています。

時代を長く経ていますが、それだけ毛利氏にとって隆景の存在は大きく、小早川家の存続を願う気持ちが残されていたのでしょう。

後にこの小早川家は華族に列し、男爵の爵位も授けられています。

こうして隆景、秀秋につぐこの三度目の養子によって小早川家は存続しましたが、実は鎌倉時代の家祖もまた養子として入った人物であり、小早川氏は、養子というものにつくづく縁があるようです。

政治にも軍事にも秀で、毛利氏を支えることに力を尽くした

これまで見た来た通り、隆景は政治にも軍事にも秀でており、不沈の激しい戦国の世において、毛利氏の勢力を守ることに力を尽くしました。

秀吉からその才能を高く評価され、独立した大名として豊臣政権に参画することを求められましたが、これを固辞して毛利氏の補佐に徹しています。

父や兄たちの死後には一身で甥を支え、大過なく毛利氏の勢力を守り続けました。

その死後に毛利氏はあっという間に転落してしまいましたが、それほどに隆景の影響力が大きかったことが、証明されているのだとも言えます。

彼がもう少し長く生きていれば、毛利氏の行く末はまた変わったものとなっていたでしょう。

隆景は戦国時代における傑出した武将のひとりであった、と言っても決して過言ではないと思われます。