隆景が本家の家督を継承し、小早川氏を統一する
こうした状況を危惧した大内義隆は、元就と協議を行い、隆景に沼田の本家を継承させることを決定します。
そして反対派を粛清し、繁平を強制的に隠居させることで、事態を収めました。
この結果、隆景は2つに分かれていた小早川氏を束ね、本家の当主の地位につくことになります。
この時に隆景は沼田小早川氏を継承する正当性を得るために、繁平の妹である問田大方(といだのおおかた)と結婚しています。
こうして小早川氏は実質的に毛利氏の一門に組み込まれることになり、毛利氏が大きく勢力を伸ばすことになりました。
毛利の両川
一方、元就の次男で、隆景の兄である元春は、吉川氏の養子になっていました。
吉川氏は安芸で勢力を持つ名門の家柄でしたが、元就が調略をしかけて当主を引退させ、これを乗っ取っています。
この結果、吉川氏と小早川氏の2つの氏族が毛利氏を支える体制が構築され、ともに「川」の字が姓に含まれていたことから、隆景と元春は「毛利の両川」と呼ばれるようになりました。
大内義隆が陶隆房に討たれる
こうして毛利氏の勢力が増大していく中で、主君の大内義隆は、逆に覇気を失っていきます。
1542年に、大内義隆は敵対する尼子晴久の本拠である、石見(島根県)の月山富田城を攻めますが、国人衆の裏切りを受けて大敗しました。
この敗戦の撤退時に、元就と嫡子の隆元が殿を務めますが、両者が危うく討ち取られそうになるほどに苦戦を強いられました。
この時に大内義隆は寵愛していた養嗣子を失ったことで、政治や軍事への関心を失い、学問や芸術活動に耽るようになっていきます。
この結果、武断派であった重臣の陶隆房(晴賢)は大内氏の中枢から遠ざけられ、大内義隆に不満を抱くようになりました。
そして1551年になると、ついに陶隆房は謀反を起こし、大内義隆を自害に追い込み、替わりに大内義長を傀儡の当主に据えて実権を掌握しました。
こうして中国地方の情勢は大きく変化し、毛利氏もその立場を変えていくことになります。
陶隆房との抗争
元就は、はじめのうちは陶隆房に協力する姿勢を見せ、安芸の領主たちを統率する権限を得ています。
しかし、やがて陶隆房との関係が悪化し、彼が元就の権限を取り上げようとする動きを見せたことから、決裂して争うようになりました。
陶隆房は石見で起きた謀反の鎮圧に手間取っていたため、配下の武将に毛利氏を攻撃させますが、この時には元就と元春、隆景が協力して退けています。
しかし、やがて謀反を鎮めるのに成功したことから、陶隆房は、自ら大軍を率いて毛利氏を討伐することを決意しました。
厳島へ
陶隆房は2万の大軍を500艘の船団に乗せ、毛利氏が勢力下に収めていた厳島に乗り込んできます。
これに対する毛利氏の総兵力は5千程度で、圧倒的な劣勢におかれていました。
毛利方は厳島に築いた宮尾城に500の兵を配置して籠城してますが、多勢に無勢で、陥落が間近な状況になります。
これを受け、元就は毛利氏の総力を結集し、厳島に出陣して陶隆房に奇襲をしかけることを決意しました。
この時に隆景は小早川水軍を動員するだけでなく、厳島付近の制海権を握る、村上水軍を味方につける工作も担当しており、重要な役割を担っています。
毛利軍の戦備
この時に用意できた毛利軍の船の数は200艘程度で、500艘の陶軍よりも、はるかに劣っていました。
このために村上水軍の協力を得ることが、逆転して勝利を得るために必要な条件でした。
隆景は家臣の乃美宗勝を通して交渉し、元就からの「一日だけ軍船をお借りしたい」という言葉を伝えました。
しかしなかなか村上水軍が決断しなかったため、元就は自軍だけで出陣しようとしていましたが、直前に村上水軍が300艘の船を率いて参戦してきたため、海上の戦力においては、有利な立場を獲得することができました。
隆景はこの直前に姪を自身の養女とし、村上水軍の長である村上通康に嫁がせており、これが参戦の決め手となったようです。
これで船の数は両軍とも同じ程度になりましたが、毛利方には海戦に強い小早川水軍と村上水軍が属していましたので、質の面で勝るようになっています。
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