水攻め
力攻めでは容易に攻め落とせそうもなく、さらには毛利の援軍も迫っていたため、秀吉は一計を案じて、高松城を水攻めにすることにしました。
城の周囲を流れる川を塞ぐ堤防を築き、低湿地にある高松城を水の底に沈めてしまおう、というのがその作戦の内容でした。
一時は川の閉塞がうまくいかずに苦戦しますが、黒田官兵衛の家臣が策を講じてこの問題を解決し、工事の完成時はちょうど梅雨時であったため、川が増水していきます。
この結果、高松城は水の底に沈み、一部の高層の建物だけが水面上に浮かぶという、孤島のようなありさまになってしまいました。
この直後に毛利軍は付近に着陣しますが、水に阻まれて城に接近できず、手をつかねて見守るしかありませんでした。
こうして秀吉と直接戦ううちに、隆景らはその実力を知らしめられ、恐れるようにもなっていきます。
講和を決意する
この事態を受け、隆景は秀吉との講和を模索するようになります。
毛利方は安国寺恵瓊が、秀吉方は黒田官兵衛が窓口となって、講和の条件が話し合われました。
毛利からは「五ヶ国の割譲と、城兵の命の安全」が条件として出されます。
これは毛利氏の領地の半分にあたり、事実上、織田軍への抵抗が不可能になるほどの、大幅な譲歩であったと言えます。
しかし秀吉がこれに加え、清水宗治の切腹を要求してきたため、交渉が難航します。
宗治の忠義を高く評価していた毛利方はこれを拒否し、一方で宗治に、秀吉に降伏して命を長らえるようにと暗に示唆しますが、宗治は切腹の条件を快諾し、「自分の命で城兵たちの命が助かるのなら、自分の首は安いものです」と述べました。
そして自分と兄弟たちの首を差し出すことを条件に、他の者たちの命を助けるようにと依頼する書状を書き、秀吉の元に送りました。
これは1582年の6月3日のことで、ちょうどこの日の夜に、秀吉の元に重大な情報がもたらされることになります。
和睦の成立
秀吉がつかんだ情報とは、主君の織田信長が、本能寺で明智光秀に討たれた、というものでした。
この情報を毛利方に知られると交渉が破綻してしまいますので、秀吉は和睦の成立を急ぎます。
そして安国寺恵瓊を呼び寄せると、領地の割譲の要求を5ヶ国から3ヶ国に減らし、一方で宗治の切腹の条件は堅持しました。
あまりに譲歩しすぎると、毛利方に何かあったのではないかと疑われるため、切腹の要求は続けたようです。
好条件となったために、恵瓊はこの取りまとめに動き、毛利方はやむなくこれを受け入れました。
そして宗治が約束通りに、兄弟たちとともに船上で自害し、高松城の戦いは決着しています。
直後に信長の死を知る
しかし和睦が成立した6月4日の夜には、毛利方にも信長が横死したという情報が伝わります。
このため、輝元と元春、隆景ら、毛利氏の首脳たちが集まり、秀吉を追撃するかどうかで激しい議論となります。
毛利軍の将兵らは、信長の死を隠しての和睦であったので、これを無効とし、追撃をして秀吉を討ち破るべきだと主張し、隆景に和睦の破棄を迫りました。
しかしこの頃には毛利氏の支配地に秀吉の調略が及んでおり、これを実行すると、毛利氏の勢力が分裂する恐れがありました。
このために隆景と元春は、誓詞が乾かぬうちにこれを破るのは不義であるとし、将兵たちの怒りを抑えて追撃を許可しませんでした。
こうした経緯であったため、秀吉は容易に撤退を達成することができ、後に毛利氏との間に友好的な関係が築かれていくことになります。
結果から言えば、この時の毛利氏の選択は正解であったと言えます。
直接の対戦の経験から、秀吉は敵に回さない方がよいだろうと、隆景らが判断していた可能性も高いでしょう。
【次のページに続く▼】