項羽は紀元前200年ごろの古代中国で、短い期間ですが覇者となった武将です。
秦を攻め滅ぼす戦いで活躍し、「西楚の覇王(せいそのはおう)」と名のって大陸に君臨しました。
しかしその統治は安定せず、間もなく各地で反乱が頻発するようになります。
そして、かつて共に戦った劉邦が頭角を表し、項羽の対抗勢力となっていきました。
項羽は何度も劉邦に戦場で勝利するものの、とどめを刺すことができません。
最後には劉邦の巧みな戦略によって逆転され、周囲が全て敵だらけになる、四面楚歌となって滅亡しました。
この文章では、最強の武将であった項羽はどうして劉邦に敗れたのか、について書いてみます。
【後世に描かれた項羽の肖像画】
秦への反乱が起こる
秦の始皇帝は、紀元前221年に、はじめて中国に統一国家を築くことに成功します。
しかしこの始皇帝が死去した後、秦の統治は安定せず、各地で反乱が頻発するようになりました。
秦の支配は苛烈で、過酷な労役を課したため、民衆の間で不満が高まっていたのです。
やがて農民出身の陳勝と呉公が立ち上がると、またたく間にその反乱に参加する者が増え、数万もの軍勢に膨れ上がりました。
そしてこれに連鎖するようにして、大陸の各地で反乱が発生します。
陳勝はしばらくすると、章邯(しょうかん)が率いる秦の反乱討伐軍に敗れ、逃走中に部下に殺害されてしまいました。
すると残った反乱勢力は、楚(中国南東部)で挙兵した項梁(こうりょう)の元に集まるようになります。
項梁はかつて秦に滅ぼされた楚の将軍・項燕の子どもで、その血筋と当人の力量があいまって、人望を得て反乱勢力の中心人物になっていきました。
この時、項梁の元に身を寄せた諸勢力の中には、沛(はい)の地で挙兵した劉邦も含まれています。
項羽の登場
項梁の甥に項羽という若者がおり、彼は武勇に優れていたことから、項梁の側近として活躍するようになります。
項梁が会稽(かいけい)の役所を占領する際には、襲いかかってきた兵士数十人を、たったひとりで返り討ちにしてしまいました。
このように、項羽は一個の戦士としても優れていましたが、同時に指揮官としても秀でた才能を持っていました。
まさに戦うために生まれたような人物で、この戦乱の時代に頭角を表していくことになります。
項梁の死と項羽の継承
反乱軍を束ねて勢力を拡大し、各地で戦勝を重ねた項梁は、やがて傲慢なふるまいが目立つようになっていきます。
そして味方の忠告にも耳を貸さなくなり、油断したところを章邯に襲撃され、あえなく戦死してしまいました。
この時に反乱軍の内部で権力争いが発生しますが、項羽はライバルの宋義という男を殺害し、叔父の後を継いで主導権を握ります。
そして3万の主力部隊を率い、秦の討伐軍との戦いに向かいました。
巨鹿で章邯に勝利する
項羽は楚から北上すると、巨鹿(きょろく)を包囲していた章邯と対決します。
この時の秦軍は20万という大軍で、項羽は6倍以上の敵と対峙したことになります。
項羽はまず秦の食糧を奪い取り、この大軍を飢えさせて敵の士気を下げます。
一方で、自軍の食糧も3日分を残して捨てさせてしまい、将兵たちに短期決戦で勝利する意向であることを示しました。
これにより、配下の者たちに決死の覚悟をさせています。
その上で秦軍に襲いかかり、多くの武将たちを討ち取ってこれを撃破しました。
この時に項羽指揮下の将兵たちは、一人で十人を相手にしながらも、これと互角に戦って討ち破った、と言われるほどのすさまじい働きを見せます。
項羽は兵士たちの士気を高め、強壮な戦士に変える術に長けていたようで、その軍団と正面から戦って勝てる者は誰もいませんでした。
この圧倒的な戦勝によって諸侯は項羽に従うようになり、覇者としての立場が確立されます。
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