懐王を殺害する
項羽や劉邦は反秦連合を形成していた時に、懐王という楚の王族の血を引く人物を迎え、その名の元に勢力を結集させていました。
項羽は自分が楚の王になると、この懐王の存在が邪魔となり、辺境に領地を与えて追い払います。
それだけでなく、追手を送って懐王を殺害してしまいました。
これによって項羽は、主君を殺害した大罪人という立場に置かれることになりました。
これが劉邦による反項羽連合の結成を可能にする、大義名分を与えることになります。
項羽の政治的なふるまいはこのようにすべて短絡的なもので、それが自分を本当に利するのかどうか、深く洞察する能力を欠いていたことがうかがえます。
斉で反乱が勃発する
項羽が即位したのは紀元前206年のことでしたが、この年のうちに斉の王族・田栄が挙兵して反乱を起こします。
田栄は秦との戦いで活躍したものの、項羽と仲が悪かったため、なんら地位を与えられていませんでした。
このために田栄は項羽が封じた王を追放し、その支配体制に対して挑戦状を突きつけます。
この時に劉邦は、項羽が懐王を殺害したことを咎め、これを大義名分として、諸侯に項羽に対して立ち上がるようにと促します。
これに呼応する者たちが次々と現れ、項羽の支配体制は一年も続かず、大陸には再び戦乱の時代が訪れることになりました。
斉の反乱討伐に向かう
項羽は大軍を率いて斉に乗り込み、ただちに反乱軍の討伐を行います。
項羽軍は戦闘には圧倒的に強いため、戦えばすぐに反乱を鎮圧することができました。
しかし、項羽は勝利するたびに敵の兵士と、彼らが篭っていた城塞の住民たちを皆殺しにしていました。
このため、項羽に敗れれば全員が死ぬしかないと知れ渡ることになり、誰も項羽に降伏をしなくなり、各地で頑強な抵抗を受けることになります。
斉は70もの城が築かれた広大な土地で、項羽は各地を転戦するものの、あちらを叩けばこちらで反乱が発生する、というありさまで、一向に反乱全体を鎮めきることができませんでした。
項羽は統治というものがまるで理解できておらず、自らが得意とする武力を行使し、敵を皆殺しにしていけば、いつかは逆らう者はいなくなるだろうという、恐るべき世界観を持っていたようです。
このため、項羽の行く先々では常に多くの血が流れ、いつ果てるともなく戦いが続くことになります。
劉邦に彭城を攻め落とされる
各地で諸侯が立ち上がった機をとらえ、漢を抜け出した劉邦は、関中の王となっていた章邯らを討ち破ります。
そしてかつての秦が大陸を制する上で、基盤とした土地をすべて手に入れました。
こうして強勢となった劉邦は、項羽に反乱を起こして各地を制した者たちと連合を組み、56万を号する大軍を率いて西楚に侵攻します。
この圧倒的な大軍をもって項羽不在の彭城を攻め落とし、占領しました。
しかしこの大軍は寄せ集めに過ぎず、彭城を占拠したあとは劉邦の指示を受け付けなくなり、各自が好き勝手にふるまうようになります。
諸侯は財宝を略奪し、酒宴を開いて浮かれるなどして、収拾がつかなくなっていきました。
この時には劉邦もまた、天下を制するだけの実力がなかったことになります。
連合軍を討ち破って彭城を奪還する
劉邦に彭城を奪われたと知った項羽は激怒し、斉の反乱軍と和睦すると、3万の精鋭を率い、急ぎ彭城に取って返します。
そして夜明けととともに攻撃を開始すると、城内の兵10万を殺戮し、連合軍を叩き出します。
さらに川沿いに追いつめた連合軍に追撃をかけ、ここでも10万の敵兵を討ち取りました。
この時に、連合軍の兵士たちの死骸によって川の水がせき止められた、という逸話が残っています。
こうして項羽は圧倒的な武力をふるい、劉邦を追い払って連合軍を解散させましたが、この後もしぶとく抵抗を受け続けることになります。
劉邦は豊かで堅固な関中を手にしており、そこから食糧や兵士の補充を受け続けることができたからです。
もしも項羽が助言通りに関中を自分のものにしていれば、劉邦の反撃を受けることはなかったでしょう。
【次のページに続く▼】