滎陽の包囲と、韓信の別働隊
項羽に手痛い敗戦を喫すると、今度は劉邦が人望を失うことになり、連合軍はばらばらになってしまいます。
この時の敗戦は、各地の勢力がそれぞれに独立したままで、劉邦の命令を聞く状態になかったことに原因がありました。
このため、劉邦は側近の張良の進言を受け、新たに戦略を練り直します。
劉邦は彭城からの撤退後、大陸中央部にある滎陽(けいよう)の地に城塞を築き、項羽を迎え討ってこの地に縛り付けます。
一方で、優れた将軍である韓信に別働隊を任せ、大陸の北部に割拠する独立勢力を降し、劉邦の支配下に置いて勢力を拡大していく、というのがその戦略の内容でした。
項羽は劉邦の狙い通りに滎陽を包囲し、大軍をもってこれを締め上げます。
劉邦がこれに耐える間に、韓信は各地の攻略に取りかかりました。
韓信の活躍
韓信は特に戦術に秀でており、この時代において、ただひとり項羽と並べるほどの名将です。
中国の全歴史を通じても一、ニを争えるほどの将軍だと言ってもいいでしょう。
項羽ほど激しく苛烈な指揮を行うことはなく、図抜けた作戦能力によって、少数の兵で多数の敵を討ち破るという功績を何度も立てています。
項羽が猛将であるとするならば、韓信は知将だと言うことになるでしょう。
韓信は劉邦から与えられた別働隊を率いて戦い始めるや、魏、趙、燕といった国々を、わずか3年ほどで劉邦の支配下に組み込んでしまいました。
そして項羽が何度攻め込んでも反乱を鎮圧できなかった斉の地も、あっさりと攻略してしまいます。
これらの大陸北部の国々を勢力圏に組み込んでいくことで、やがて劉邦は総兵力において項羽を上回るようになっていきます。
滎陽の戦い
韓信がそのようにあっさりと各地を占拠できたのは、最強の敵である項羽を、劉邦自らが囮となって引きつけていたためでした。
また、劉邦は項羽の後方を撹乱すべく、腹心の盧綰(ろわん)や従兄の劉賈(りゅうか)らを派遣します。
そして楚の食糧補給を妨害するなどして、項羽を苦しめました。
さらに、山賊あがりの彭越(ほうえつ)という武将と手を結び、項羽の領地を荒らして回らせます。
彭越はゲリラ戦に徹し、根拠地を持たずに転戦し、各地で楚軍の食糧を焼いて回りました。
これにたまりかねた項羽は、自ら兵を率いて何度も彭越の討伐に乗り出しますが、彭越はすぐに逃げてしまうために捕らえきれず、その出動は常に空振りに終わっています。
こうして項羽が滎陽を離れるたびに劉邦は一息つくことができ、その対陣は長引いていきました。
離間の策
こうして劉邦は、韓信によって勢力を拡大し、彭越によって後方を撹乱し、自らが囮となって項羽を引きつけることで、一個の戦場ではなく、大陸全体を活用し、項羽に対して有利な状況を作り上げようとしました。
また、同時に項羽の陣営に対して切り崩しをかけています。
策略家の陳平が提案した離間の策を用い、項羽とその家臣たちの間を引き裂きさこうとします。
陳平は多くの資金をばらまいて項羽陣営に、将軍や参謀たちが項羽への謀反を企んでいる、という噂を流させます。
何度もそれを聞き及ぶうちに、項羽はだんだんとその噂に耳を傾けるようになっていきました。
そしてある時、項羽の使者が劉邦に降伏を促すべくその陣営に赴くことがありました。
この時に使者は豪勢なもてなしを受けますが、使者が項羽の参謀・范増(はんぞう)が遣わしたものではないと知ったとたん、粗末な食事に切り替えてしまいます。
見え透いた手ですが、これによって范増が劉邦と内通しており、項羽への謀反の相談のために使者を送る間柄だったと、項羽に疑わせるように仕向けたのです。
項羽はこの手にのってしまい、やがて范増を側から遠ざけます。
范増はこれに憤って項羽の陣営を離脱し、故郷に戻る途中で病死してしまいました。
こうして劉邦は項羽の側近を取り除き、その力を弱らせることに成功しています。
項羽は自身が策略を用いない人なだけに、こうした策謀に対する免疫がなく、あっさりと陳平のしかけた罠にひっかかってしまったようです。
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