項羽はどうして四面楚歌となって劉邦に敗れたのか?

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滎陽からの脱出と、広武山での対峙

このようにして項羽を撹乱し続けたものの、その猛攻の前に、ついに滎陽の守りが破られそうな情勢となり、劉邦は脱出を図ります。

しかし城の周囲は項羽軍によって厳重に包囲されており、容易に成し遂げられることではありません。

この時に陳平が、またも劉邦に策を提案します。

降伏すると偽って劉邦の偽物を項羽の陣営に送り、時間を稼いでいる間に滎陽を脱出する、というのがその策の内容でした。

劉邦の信用に関わる問題でしたが、追いつめられていた劉邦はこの策を承認し、紀信という武将を身代わりにして項羽の元に送ります。

そして戦いが終わったと油断した項羽軍の隙をつき、滎陽から脱出しました。

やがて紀信が項羽の陣営に入ると偽物と気づかれ、騙されたと知った項羽の怒りを買って処刑されています。

この策は、項羽の陣営に范増が残っていれば、見抜かれて通用しなかったかもしれません。

陳平が用いた先の離間策が、このような形で効果を発揮することになりました。

劉邦は周苛(しゅうか)という武将を滎陽に残して防戦をさせ、その間に関中に戻り、腹心の蕭何が用意した新たな部隊を率い、今度は広武山に陣を構えました。

間もなく滎陽を攻め落とした項羽は広武山を包囲し、再びその対決が始まります。

この流れからは、腹心を遠ざけてしまった項羽と、紀信や周苛といった武将たちが命をかけてくれる劉邦の間に、大きな人望の差があったことがうかがえます。

韓信との交渉

この頃になると、斉の国を韓信が攻め落としており、その存在は項羽にとっても無視できないものとなっていました。

項羽は使者を送って韓信を味方につけようとしますが、拒絶されています。

韓信はかつて警護兵として項羽に仕えていたことがあったのですが、項羽に重く用いられなかったために劉邦の元に去っていた、といういきさつがありました。

一方で劉邦には大将軍に任じてもらっており、こちらには大きな恩があります。

かつてはまるで省みなかったのに、活躍したから味方につけというのは都合のいい話だ、というのが韓信の思いだったのでしょう。

もしも項羽に韓信の才能を見抜く目があれば、劉邦に手こずることもなかったでしょうが、後の祭りでした。

項羽はこのため、20万の大軍を将軍の龍且にあずけて韓信を討伐させようとしますが、大敗を喫し、龍且は韓信に討たれてしまいます。

斉王韓信

斉を占拠した韓信は、功績に対する報奨が欲しくなったようで、劉邦に使者を送って、斉の仮の王に任じて欲しいと要請します。

劉邦は項羽に苦戦していた時期なので、韓信の申し出に怒りかけますが、張良にたしなめられてこれを承認しています。

そして「仮の王だなどと言わず、正式に王になれ」と言って韓信を斉王に封じました。

もしもここで怒りを見せると、韓信は独立勢力となってしまう可能性もあり、その実力は劉邦にとっても脅威になりつつありました。

ともあれ、こうして劉邦は韓信を味方にし続けることに成功し、ついに総兵力で項羽に勝る状況を作り上げています。

この韓信への対応が、両者の勝敗を分ける上で、大きな比重を占めることになります。

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