和睦と追撃
広武山での対峙が長引くうちに、彭越らの撹乱の影響で、ついに項羽の陣営は食糧が尽きてしまいます。
一方で広武山はもともと食糧の集積地なので、そこを根城にする劉邦の側は、これに困ることがありませんでした。
このため、項羽はやむなく劉邦と和睦をすることにし、大陸を東と西で分け合う、という取り決めを行います。
そしていったん楚に戻って体制を立て直し、再び劉邦と戦って殲滅してやろう、というのが項羽の意図でした。
この時に張良と陳平は、劉邦に対して項羽を追撃するようにと進言します。
協約違反となりますが、ここで項羽を楚に戻らせ、軍備を整えさせてしまうと、項羽に勝利するのは困難となります。
そのため、ここで最も弱っている機を捕らえ、倒してしまうべきだと劉邦に勧めたのです。
卑怯な話ではありますが、項羽ほどの者を討ち破るには、なりふり構っていられない、というのが劉邦陣営の考えだったのでしょう。
劉邦はこの進言を受け入れ、韓信や彭越らに集結するように命じ、項羽に追撃をかけます。
しかし韓信らは姿を見せず、単独で項羽に挑むことになった劉邦軍は、あっさりと撃破されてしまいます。
食糧が尽きようとしていても、項羽が率いる楚軍の強さは健在だったのです。
この時に、項羽はそのまま彭城まで撤退してしまえばよかったのですが、約束を破った劉邦に対する怒りがおさまらず、そのまま包囲して攻撃を続けます。
しかしすでに食糧が尽きていましたので、これは愚策でした。
この感情に任せた判断が、項羽の命取りになります。
韓信らへの呼びかけ
この時に劉邦は、どうして韓信や彭越らがやってこないのかと怒ります。
これに対し、張良が彼らの心理を説明しました。
劉邦はすでに大陸の半分の主であり、それにも関わらず、戦後の報奨を約束していないから韓信たちはやってこないのです、と述べます。
劉邦は、まだ項羽に勝てるかどうかもわからないのに、戦後の約束などできない、と反論します。
家臣たちからすると、劉邦はすでに多くのものを所有し、約束ができる立場であり、報奨を惜しんでいるようにしか見えないのです、と張良が言うと、根が聡明な劉邦は事情をすべて理解しました。
そして戦後も引き続き韓信を斉王に、彭越を梁王に封じると連絡を送ると、果たして彼らは劉邦の要請に応じ、30万の軍勢が集結しました。
劉邦の元にいた10万と合わせ、40万という大軍が集ったことになります。
これに対し、疲弊していた項羽軍は10万程度しか残っていませんでした。
こうしてついに項羽は追い詰められますが、それでも軍を引くことはありませんでした。
敵に後ろを見せるという選択は、常勝将軍である項羽にとってありえないものだったのでしょう。
垓下の戦い
この時に両軍は垓下(がいか)の地で決戦を行います。
劉邦は韓信を先鋒として項羽に攻めかからせますが、初めは項羽の方が優勢となり、韓信はいったん引き下がります。
この時に韓信の側面に布陣していた武将たちが項羽軍に攻めかかり、進撃を食い止めました。
そして体勢を立て直した韓信が再び項羽軍に攻撃を開始すると、支えきれずに崩れ、敗走しました。
こうして劉邦は、ついに最強の武将である項羽を撃破することに成功しています。
さしもの項羽も自軍が疲弊しきった状態で、韓信を相手に4倍もの兵力差があっては、勝利はおぼつかなかったようです。
生まれて初めて戦いに敗れた項羽は軍を引かせると、垓下の城塞に立てこもりました。
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