20万の捕虜を殺害する
多くの将と食糧を失った章邯はやがて項羽に降伏し、生き残った秦の兵士たちはみな捕虜となります。
これによって、項羽は自軍が3万しかいないのに、20万に近い捕虜を抱えたことになりました。
少数で多数を制御することの困難さや、食糧の確保に悩まされ、やがて項羽はこの問題を解決するために、捕虜たちを皆殺しにすることにします。
項羽はある夜、捕虜たちを三方から囲んで襲撃させました。
すると捕虜たちは、開いている一方から脱出を図って逃げ出しますが、その先には深い渓谷がありました。
夜だったこともあって、捕虜たちは次々と崖から飛び出してしまい、残る者たちも追い立てられ、ついに全員が谷底で死者となってしまいます。
項羽は敵の命を奪うことをなんとも思わない人間だったようで、このために民衆からの人望を得ることができないままに生涯を過ごすことになります。
どこかしら、人格に大きく欠けたところを持ったまま成長していたようです。
項羽が唯一従っていたのが叔父の項梁でしたが、彼が死去していたことから、項羽を諭すことができる者はどこにもいなくなっていました。
項羽の暴虐の根源
項羽は人の命を軽んじる傾向にありましたが、これには当時の中国には、まだひとつの国である、という意識が乏しかったことも影響しているかもしれません。
項羽は同郷の楚の人間を大事にする傾向にあり、これは後に敵に回る劉邦に対しても同じでした。
一方で、楚以外の地域の人間は粗略に扱っており、ましてや秦はかつて楚を滅ぼした国ですので、秦人たちに対しては、特にその命を軽んじる傾向が強くなったのだと思われます。
これはすなわち、項羽は楚の王にはなれても、大陸中を支配できるだけの広い心を持ってはいなかった、ということでもあります。
このため、人々は項羽の武威を恐れこそはしても、心から従うことはありませんでした。
劉邦を追い出して咸陽(かんよう)を支配する
この時に楚の反乱軍は二手に別れており、項羽が北回りで秦の主力を撃破し、劉邦が西に直線的に進軍し、秦の本拠である関中を攻略する、という作戦を取っていました。
項羽が巨鹿で秦の主力を撃破した頃、劉邦は比較的敵の少ない地域を突破し、関中に侵入しています。
そして秦の首都・咸陽を攻略し、3代皇帝・子嬰(しえい)を捕縛していました。
項羽は章邯と戦って遅れたため、後から乗り込んだ形になりましたが、劉邦を追い出して咸陽を占拠し、宝物を奪い取った上でこれを焼き払いました。
そして劉邦が捕縛していた皇帝を処刑してしまいます。
劉邦は宝物に手をつけず、皇帝を処刑せず、法律を少なくして緩やかに統治を行うと宣言していたため、秦の民衆から支持を得ていました。
一方で、項羽はこれと真逆の行動を取ったため、支持を得ることはできませんでした。
項羽が政治的な失敗を重ねるたび、劉邦は逆の行動をとって民衆の支持を集めていくという構造が、この時からできあがっていきます。
西楚の覇王を名のる
項羽は「豊かで守りも固い関中の地を、ご自身の領地にしてはいかがでしょう」と論客に勧められますが、これを退け、故郷の楚に自身の国を作ることにしました。
この理由は、「せっかく出世をしても、故郷の人々にこれを見せつけ、誇れなければ、成し遂げた意味がないからだ」という、子どもっぽいものでした。
項羽にとっては楚こそが世界の中心であり、そこ以外に自分の領地を持ちたいとは思えなかったのでしょう。
項羽は楚の北部にある彭城(ほうじょう)を都と定め、「西楚の覇王」と名のり、新しい大陸の支配者になったことを宣言します。
そして諸侯に各地を分け与えますが、これが不公正な配分であったため、多くの者が不満を抱えることになりました。
項羽の領地分割の基準は、自分と親しいかどうかで決まっており、秦を倒す上での功績を基準としたものではなかったからです。
例えば咸陽を攻め落とすという大きな功績をあげた劉邦は、漢という辺境の地においやられました。
その他の地域でも、実力のあるものがそれにふさわしい地位を得られなかったため、世が鎮まることはありませんでした。
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