四面楚歌
この日の夜になると、城の四方から楚の歌が聞こえ始めます。
これを聞いた項羽は、故郷の楚が既に劉邦の手に落ちたと気づき、楚の人間までもが敵に回ってしまったのかと嘆きます。
この作戦を誰が考えたのかは伝わっていませんが、人の心理を巧みに利用する策は陳平が得意としていましたので、彼の発案かもしれません。
この四面楚歌によって項羽の陣営は士気がひどく低下し、城から逃げ出すものが続出します。
項羽軍は楚の人々によって構成されていましたので、同郷の人間までもが敵になったと知って、なお戦い続ける気にはなれなかったのでしょう。
楚という土地をなによりも大事に思っていた項羽にとっても、痛恨の事態であったと思われます。
項羽の伯父の項伯や、鍾離昧(しょうりまい)などの歴戦の将軍たちも、この時に項羽の元を去っています。
こうして孤立した項羽はついに追い詰められたことを悟り、愛妾の虞美人を呼んで別れの宴席を開きます。
垓下の詩
この宴席で、項羽は次のような詩を詠んでいます。
力は山を抜き 気は世を蓋う
時に利あらず 騅(すい)逝かず
騅逝かざるを いかんすべき
虞や虞や 汝をいかんせん
この中の騅とは、項羽の愛馬のことです。
自分には優れた力があり、気迫は世を覆って制するほどであるのに、時勢が自分に味方しなかった。
そして騅はもはや進もうとしない。
これをどうすればいいのか。
虞よ、おまえのことも、どうすればいいのだ。
と嘆きを表しました。
実際には、項羽は政略や戦略といったものを理解しなかったために敗れたのですが、ついにそれがわからないままだったようです。
戦場での強さがあれば、すべてをつかめるはずだと信じていたのでしょう。
虞美人はこれに唱和し、項羽も家臣たちも涙を流しました。
この後の虞美人の動向は不明ですが、足手まといにならぬよう、自害したとも言われています。
垓下からの脱出
項羽は宴が終わると残った800騎を引き連れて包囲を破り、南へと逃走しました。
劉邦の陣営はこれに気づき、灌嬰(かんえい)という武将に5千騎を預けて追撃させます。
追撃軍との戦いの間に兵が脱落していき、やがて28騎にまで減少してしまいました。
そして東城というところで追撃軍に追いつかれると、項羽は「私が滅びるのは天が滅ぼそうとするからで、弱いからではない。これからそのことを証明して見せよう」と述べます。
そして28騎を7騎ずつ4隊に分け、数千の敵軍の中に斬り込みました。
項羽は自ら敵の指揮官を倒し、90程度の兵を討ち取り、敵中の突破に成功しています。
100倍以上の敵中を突破するという武勇は、並外れた、という言葉では形容しきれないほどのすさまじさです。
この時に脱落した兵は2騎にとどまり、項羽は残る26騎とともに、烏江(うこう)という長江の渡し場に到着します。
烏江の渡し
この烏江を渡れば長江を越え、追撃を逃れることができました。
しかもその先は、かつて項羽と項梁が挙兵した江東の地であり、そこに戻れば再起を図ることも不可能ではありません。
烏江の役人は項羽に対し、ここを渡って江東に向かい、そこの王になるようにと勧めます。
このあたりで船を持っているのは私だけですので、漢軍が来ても渡ることはできません、とも告げます。
しかし項羽は、かつて江東の若者たち8千人を率いて長江を渡ったが、今はもうひとりも残っていない。もしも江東の者たちが自分を王にしてくれると言っても、合わせる顔はない、と言って断りました。
そしてこの役人に愛馬の騅を与え、残った兵たちも馬から降ろさせます。
【次のページに続く▼】