織田信長が本能寺の変で明智光秀に討たれたワケ

スポンサーリンク

信盛追放の理由

既に触れましたが、信盛は元々、尾張に自前の領地を持っており、信長に仕えてから武将になったわけではありません。

独立した軍勢を抱え、まだ微弱な勢力だった信長に協力する立場でした。

それゆえに家中で重んじられていたのですが、信長からすれば、扱いにくいところもあったのだと言えます。

信盛は信長に抗弁したり、独自の判断で動くこともありましたので、そのあたりを信長は、かねてより不快に感じていたのでしょう。

そして1580年になると、信長の勢力は飛躍的に増大しており、その気になれば、かつての協力者であった信盛を、身一つで追放できるほどの権力を持つようになっていました。

それが信長を思い上がらせ、老臣に対する残酷な措置をとらせた原因になったのだと考えられます。

この事件によって信長が、家臣に対しても守るべき節度を見失い始めていたことがわかります。

尾張の一領主から、天下の過半を支配するほどの地位を手に入れたわけですので、思い上がってしまうのも無理がないところはあるのですが、そのあたりが信長という英傑の限界点だったのだと言えます。

当時の武士のありよう

江戸時代になると、家臣は主君に忠実に仕えるべきである、という倫理が確立されますが、戦国時代では異なっていました。

この頃の主従関係は、家臣は能力を提供し、主君は相応に報酬を与える、というのが原則で、現代の雇用関係に似ています。

このため、家臣は働きに対する適正な報酬が与えられなかったり、粗略に扱われれば、すぐに退転し、他の武家に再仕官するものでした。

例えば伊勢32万石の大名になった藤堂高虎は、生涯で8人の主君に仕えています。

高虎は多い方ではありますが、著名な武将であれば、何度かは主君を変えるのが普通のことでした。

そのような主従関係ですので、重臣への礼節を失うと、悪くすれば謀反を起こされることもあました。

重臣たちもまた、それぞれ自分に従う軍勢を抱えており、戦闘に長けているわけですので、理不尽なことをされても黙って従い続ける、ということはなかったのです。

にも関わらず、信長は重臣を粗雑に扱い始めていたわけで、これはその身を滅ぼすことにつながる、危険な傾向だったのだと言えます。

明智光秀が畿内の軍団長になる

信盛が追放された後、代わって畿内の軍団長を任されたのが、明智光秀でした。

明智光秀

【明智光秀の肖像画】

光秀は近江の坂本や丹波(京都府北部)を領有し、1万5千の軍勢を率いていました。

それに加え、8ヶ国もの武士団の統括を任され、信長の近衛軍団長とも呼べる立場に就いています。

これは大変な出世ではあったのですが、しかし光秀は、佐久間信盛と同様の立場に立たされた、ということもでありました。

権力を握った人間は、身近にいる、自分に従わない人間を虐げ始めることが多く、光秀は爆弾の側に座り込まされるような、危険な地位についたことにもなったのでした。

光秀の立場

光秀は、元は美濃出身の浪人で、足利義昭や朝倉義景に仕えていた人物です。

光秀は自分で「かつては取るに足らない存在だった」と記しており、出身の身分はかなり低かったようです。

明智氏は美濃みのの守護大名・土岐とき氏の一族だとされているのですが、光秀の家はかなり落ちぶれており、父親の名前すら伝わっていないほどです。

光秀は足軽、もしくは中間ちゅうげん(雑用係)として働いていた、という記録もあり、信長に取り立てられるまでは、相当に苦労を重ねていました。

しかし信長に仕えるや、すぐに重く用いられるようになり、やがては数万の軍勢を率いるほどの地位を与えられます。

このため、光秀は信長に大変に恩義を感じ、忠実に仕えることを心がけています。

信長が信盛に代わって光秀を畿内の軍団長にしたのは、光秀なら自分に従順に従い、勤勉に働くだろう、と期待してのことだったのでしょう。

しかし人は地位が高くなれば、おのずと我が強くなり、自己主張をするようになるもので、やがて信長と光秀の関係もまた、悪化していくことになります。

【次のページに続く▼】