織田信長が本能寺の変で明智光秀に討たれたワケ

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光秀の配置換え

信長は光秀を成敗しようとまでは思わなかったものの、命令をきかなかったことを咎め、畿内の軍団長の地位は剥奪することにしました。

そして丹波の領地を取り上げ、山陰地方・石見いわみ(島根県)の領主にすると通告します。

中国地方の征服が終わったら、九州に攻め込むことになっていましたので、それを見越した配置換えではあったのですが、当時の日本の中心地である畿内の領地を取り上げられ、山陰に移されるのは、はっきりと左遷だったと言えます。

殴打された上に左遷されることにもなったわけで、光秀の心の中で、信長への失望と憎しみが強まったことは、容易に想像がつきます。

このような経緯によって光秀は、信長への謀反を本気で考えるようになりました。

斎藤利三を重用したのは、明智軍を強化でき、それがひいては信長のためにもなる、というのが光秀の考えでしたし、そもそも一鉄の元を利三が飛び出したのは、ケンカをした一鉄にも落ち度があったわけです。

二人も引き抜いてしまったのは、光秀にも奢りがあったと感じられるところもありますが、それにしても、一方的に地位を落とされるのは理不尽だと、光秀は考えたことでしょう。

こうして、信長が与えてくれた恩に対する感謝は薄まり、いっそのこと信長を討って自分が天下人になってやろう、という気持ちが、光秀の心を支配したと思われます。

いったん信長の不興を買ってしまった以上、いずれは信盛のように身一つで放り出され、みじめな最期を迎えることになるかもしれない、という恐怖もまた、光秀の心に兆したと考えられます。

そんな目にあうくらいなら、先に信長を倒してしまった方がいい。山陰に移されてからでは遅い。やるなら、畿内に領地を持っている今しかない。

そのように光秀の思考は展開されていったと想像できます。

つまり本能寺の変の原因は、すべて信長が作り出したのでした。

それでも、信長が安土あづち城の中にいて、城壁と兵士たちに守られているうちは手を出せませんが、やがて中国地方からの出陣要請によって、襲撃の機会が発生することになりました。

中国地方への出征

1582年の5月になると、中国地方で戦う秀吉は、毛利輝元と和平交渉を行い、10ヶ国の領地のうち、5ヶ国を割譲させるほどの譲歩を引き出していました。

しかし水攻めで追い詰めた備中びっちゅう(岡山県)高松城の城主・清水宗治むねはるを切腹させる交渉が難航し、なかなか条件が定まりませんでした。

秀吉が清水宗治の切腹を強く要求したのは、それによって織田軍が勝利したという印象を強め、世間と信長に対して自分の功績をアピールするためでした。

しかし宗治は、毛利氏に仕えて始めてから日が浅かったため、毛利輝元ら首脳陣は、宗治を犠牲にするのを忍びなく思い、助命を求めて交渉を続けていたのです。

このために秀吉は、信長に自ら中国地方に遠征をしてくれるようにと要請しました。

信長がやってくれば、毛利氏に強く圧迫をかけることができますので、領地の割譲と清水宗治の切腹を、ともに受け入れざるを得なくなるだろう、というのが秀吉の狙いです。

この連絡を受け、信長は中国地方に出向くことにし、光秀にも出陣を命じました。

そして秀吉の援護をせよ、と伝えます。

中国地方に配置換えをするつもりでしたので、その予行演習をさせる意味合いもあったのでしょう。

光秀はこれを受け、出陣の準備を進めつつ、謀反を具体的に計画するようにもなりました。

その計画とは、中国地方に向けて移動する途中の信長を襲撃し、討ち取ってしまう、というものです。

本能寺に宿泊する

信長は家臣の気持ちに鈍感になっていただけでなく、自分の身の安全にも配慮しなくなっていました。

中国地方に向かうにあたり、馬廻という屈強な親衛隊を連れず、100名程度の小姓こしょうや秘書官のみをつれ、武装もしないで京に入っています。

そして、それなりの防御施設はあったものの、本格的な城塞ではない、本能寺に宿泊しました。

これが1582年6月2日のことです。

光秀は信長へ謀反を起こすにあたり、身辺の様子を探らせていましたが、この日、ついに絶好の機会が訪れたことを知ります。

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