太田資正 軍用犬を用い、北条氏と戦い続けた知将の生涯

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里見氏と協力関係を築くも、松山城を奪われる

資正は氏康の攻撃を受ける中、これに対抗するために、上総かずさ(千葉県中部)や安房あわ(千葉県南部)を支配する里見氏と同盟を結びます。

そして1563年に、北条氏と武田氏の連合軍が松山城に攻め込んで来たため、里見氏と合同して迎え撃とうとします。

この時は相手が大軍だったために松山城を救援できず、間もなく攻め落とされてしまいました。

国府台合戦で敗北する

こうして資正は再び窮地に追い込まれますが、北条氏の体制もまだ万全ではありませでした。

この頃の江戸城は、資正の同族である太田康資やすすけが支配し、北条氏に属しています。

しかし太田康資は北条氏へ不満を抱くようになり、資正を通じて上杉方へと寝返りました。

康資は江戸城ごと上杉陣営に入ろうとしたのですが、離反を他の江戸在住の武将に察知されたため、身一つで逃げ出し、岩付城で資正に保護されています。

資正が状況を謙信に知らせると、謙信は里見氏の当主・義弘に使いを送り、資正と康資を救援するようにと要請しました。

これを受け、里見義弘は1万2千の軍勢を率いて国府台こうのだい城に入り、江戸城を攻撃する構えを見せます。

北条氏康は里見軍の接近を知ると、2万の大軍を率いて江戸城へ向かい、里見軍を迎撃しようとしました。

この時、江戸城の守備部隊が先走って里見軍に攻めかかりますが、返り討ちにあって壊滅しています。

これは康資の寝返りを直前まで察知できなかったことに責任を感じた江戸城の諸将が、失態を取り返すために独断で行った攻撃でした。

この戦勝に気をよくした里見義弘は、正月だったこともあって、宴を開いて兵士たちに酒をふるまいます。

北条氏康はそんな里見軍の様子を察知すると、撤退したように見せかけてさらに油断を誘い、その上で夜襲をしかけて里見軍を大混乱に陥れます。

この結果、筆頭家老である正木信茂が戦死し、里見軍は大敗を喫して国府台から撤退しました。

資正もこの敗北に巻き込まれており、敵に組み伏せられて危うく首をとられそうになったところを、郎党が駆けつけて救援した、という話があるほどで、太田軍も相当な痛手を受けたことがうかがえます。

こうして資正は里見氏の支援を受けられなくなり、自らの兵も損なったため、岩付城を脱出して上総に落ち延びました。

長男の手によって追放される

こうして武蔵における北条氏の優位が確定しましたが、なおも資正は抗戦をあきらめませんでした。

上総で勢力を持つ酒井胤治たねはるの支援を受けると、1564年の5月には、早くも岩付城を奪還しています。

しかし、この頃に長男の氏資は、北条氏への抗戦をやめ、臣従するべきだと考えるようになっていました。

このため、7月に資正が里見氏と再び連携するために安房に出向いた際に、氏資に岩付城を奪われ、北条氏に降伏されてしまいます。

そして資正は追放処分とされ、息子に居城を奪われるはめになりました。

資正の意地

長男に追い出されたくらいですので、資正の活動は太田氏の内部でも、支持を得られなくなっていたことがわかります。

周囲の領主たちからも「資正がどうして北条に敵対を続けるのかわからない。近くの小田原ではなく、遠くの越後に仕えるなど、無謀ではないか」などと言われていました。

これに対して資正は「我が家が曾祖父の道灌以来、誉れを関東にふるい、名を天下に上げたのは、管領家たる上杉氏に対して義を貫いてきたからである。今、上杉氏が落剥したからといって、北条氏に降るのは不義な行いだ。だから私は北条氏には仕えない」と宣言し、自分の行動の意図を明らかにしています。

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