太田資正 軍用犬を用い、北条氏と戦い続けた知将の生涯

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反北条同盟の結成

このようにして、佐竹氏の支援によって北条氏と戦いを続ける資正を、謙信は不快に思い、ついに絶縁状を突きつけました。

しかし関東で活動する上で、外交や軍事に長けた資正の力は必要になりますので、やがて両者の間に再び交流が持たれるようになります。

そして1573年頃から、上杉氏が再び北条氏と敵対するようになったことで、関係が修復されました。

資正は上杉氏、佐竹氏、里見氏とそれぞれに関係を持っていたことから、三者の同盟のために奔走し、反北条同盟の形成に成功しています。

これによってしばらくの間、関東の情勢は膠着しました。

謙信の死と、信長の台頭

やがて、1578年になると謙信が急死し、その知らせが資正の元にもたらされました。

すると資正は、中央で台頭していた織田信長にこの知らせを送っています。

北条氏を抑える上で、いずれ信長の力が必要になると見越し、外交を開始していたのでしょう。

資正は日本全国に視野を広げ、その上で戦略を練る力も持っていたようです。

やがて1582年になると、信長は甲斐(山梨県)と信濃(長野県)に侵攻し、武田氏を攻め滅ぼしています。

そして北条氏を臣従させ、上野に滝川一益を配置し、関東の諸侯を束ねるようにと命じました。

資正はあらかじめ信長と外交を行っていましたので、問題なく良好な関係を築き、その立場を保っています。

こうして関東の情勢が収まり、北条氏の侵攻も止まるかと思われましたが、間もなく信長は本能寺の変で横死し、関東では再び戦いが開始されることになりました。

次男の裏切り

北条氏は信長死後の混乱を利用し、滝川一益を打ち破って上野の大半を手中に収めると、残る下野や常陸への侵攻を繰り返しました。

佐竹氏や宇都宮氏ら、北関東の諸侯は連合軍を形成し、北条氏に対抗しますが、1584年に発生した「沼尻の戦い」で劣勢となります。

この戦いは北条氏が7万、連合軍が3万を動員する大規模な戦いでした。

そしてその渦中に、長年に渡って資正と一緒に戦い続けて来た次男の梶原政景が、突如として北条氏に寝返ってしまいます。

この戦いは、連合軍側が北条氏に譲歩することで、やがて和睦が成立しました。

そうして落ち着くと、佐竹氏は当然のことながら、政景の討伐を行います。

政景は降伏しましたが、長年佐竹氏に仕えて戦っていたことを考慮され、特に処罰されることはありませんでした。

しかし、長男に続いて次男にも裏切られた資正は衝撃を受け、三男の資武すけたけを新たに後継者に指名しました。

継続する戦いと外交

その後は小田城奪回に執念を燃やす小田氏治との戦いを繰り広げるなど、資正は休む間もなく北条方との抗争を継続しました。

資正もそうなのですが、関東の武家は古くから続く家柄が多く、血縁や地縁に基づく強固なつながりがあるため、危機に陥った際に、他家から支援を受けやすい環境を持っています。

このために一度本拠を失っても、それですぐに滅亡することはなく、復権を目指す戦いが長引く傾向にありました。

戦いが続く中、1588年、66才になった資正は、三男の資武に家督を譲って隠居します。

それでも完全に引退したわけではなく、この頃には天下人への道を突き進む豊臣秀吉と外交を行い、北条氏の征伐を盛んに要請していました。

老いて隠居してもなお、北条氏に対する敵対心には衰えがなかったようです。

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