秀吉の小田原征伐に参陣する
1590年になると、信長の勢力基盤を引き継いだ豊臣秀吉が、大軍を率いて北条征伐を行いました。
秀吉は北条氏を外交によって臣従させようとしたのですが、当主の北条氏政・氏直親子が交渉を引き延ばし、臣従すると決断しなかったため、ついに討伐をすることにしたのです。
そして緒戦に勝利すると、北条氏の本拠である小田原城を15万の大軍で包囲し、追い詰めました。
この時に資正は小田原に参陣し、秀吉に謁見しています。
そして包囲軍に加わった際に、北条方の松田憲秀の軍勢の様子を見て、「彼は寝返るつもりであるようだ」と述べ、これが秀吉にも伝わりました。
実際のところ、松田憲秀はすでに豊臣方に内通していたのですが、極秘にされていましたので、秀吉はどうして資正がそれに気づいたのかと不思議がります。
秀吉が資正に会ってそのことを尋ねると「憲秀は勇敢で知謀も優れており、人に怖れられる武将です。しかしながら、彼の陣を見たところ、きちんと軍備を整えず、兵士たちを戒めず、弛緩した空気が漂っていました。憲秀がそのような状態を放置していたのは、既にこちらに内通しているからでしょう」と答えます。
これを聞いた秀吉は、資正の慧眼に感嘆しました。
秀吉の感想
そして資正が帰ると、近くにいた徳川家康に向かい、「今の資正の話を聞いて、二つ不思議と感じたことがある。なんだかわかるかな?」とたずねました。
家康は「一つは資正の知謀のことでしょう。残りの一つはわかりかねます」と答えます。
すると秀吉は、「わしは卑しい身分から身を起こし、こうして天下の主となった。しかし資正は名門の出身で、あれほどの知謀もあるのに、一国を保つことすらできなかった。これは実に不思議なことではないか」と述べました。
実際のところ、資正は能力がありながらも、岩付城を保つことすらできなかったのは、北条氏の興隆という時勢に逆らったからでしょう。
いかに個人としての力量が優れていても、それだけで時勢を覆すのは困難で、それが子どもたちにまで裏切られた原因になっていると思われます。
人は不屈の精神を持ち続けると、手厳しい試練を与えられてしまうようです。
北条氏の滅亡と、資正の死
北条氏はおよそ3ヶ月の籠城戦の末に秀吉に降伏し、領地を全て没収され、前当主の氏政が切腹を命じられるという、厳しい処分を受けました。
これによって90年に渡って関東で勢力を伸ばし続け、資正を苦しめた北条氏は、ついに滅亡しています。
資正はこの翌年に亡くなっていますが、長年の悲願だった北条氏の滅亡を目の当たりにすることができ、それで気が抜けてしまったのでしょう。
念願が達成され、満足して亡くなったのだと思われます。
享年は68でした。
子孫について
資正は最終的に片野城を所有しており、これが三男の資武に譲られています。
この家系はやがて佐竹氏を離れて家康の次男・結城秀康に仕え、福井藩士となっています。
しかし子孫は浪人し、後継者が夭折したことから、武家としての資正の家系は断絶してしまいました。
一方、東大阪にある浄土真宗の専宗寺には、資正の子孫が僧として在籍しており、こちらの家系はその後も存続したようです。
この縁で、専宗寺には今も、謙信や秀吉が資正に送った外交文書などを含む、「太田氏関係文書」が所蔵されています。
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