李厳(李平) 文武両道なれど、偽りを述べて諸葛亮に処罰される

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李平と改名する

なお、この頃に李厳は「李平りへい」と改名しています。

ですので、ここからは李平の名で記述します。

ところで、この時に諸葛亮が李豊に地位を与えたのは、李平が諸葛亮に、自分の地位や権力を高めることを要求したからでした。

諸葛亮は子の李豊に地位を与えることで、それを取りつくろって、李平と争わないようにしたのです。

このあたりの貪欲なふるまいが、李平が後に諸葛亮から糾弾される理由のひとつとなります。

軍需物資の輸送を担当するも、失敗する

231年の春になると、諸葛亮は祁山きざんに出陣し、北伐を実施しました。

この時、李平が軍需物資の輸送を監督する任務につきます。

しかし夏から秋にかけ、長雨にみまわれたこともあって、食料の輸送を継続することができませんでした。

このために李平は、参軍の狐忠こちゅうと、督軍の成藩せいはんを派遣してその旨を伝え、諸葛亮を呼び戻させます。

諸葛亮は李平からの話を承知して、軍を撤退させました。

諸葛亮に責任をかぶせようとする

しかし李平は、軍が撤退したという知らせを聞くと、驚いたふりをして「兵糧は十分足りているはずなのに、どうして帰ってきたのだろう」などと語り出しました。

そして食料の供給を果たせなかった責任から逃れるために、進軍をしなかった諸葛亮に責任があるかのように見せかけようとします。

さらに劉禅に上表を行い、「軍は退却したふりをして、賊軍を誘い出し、戦いを交えるつもりです」と説明をしました。

このように、李平はちぐはぐな言動を繰り返し、自分で自分を追い込んでいってしまいます。

おそらくは、自分の失敗を素直に認めることができない性分だったのでしょう。

帰還した諸葛亮が、前後にわたる李平の自筆の手紙を入手し、整理した上で提出をしたので、李平の言動の矛盾が明らかになりました。

このため、李平は言葉につまり、弁明をすることもできなくなり、罪を認めて謝罪をします。

諸葛亮に糾弾される

これを受け、諸葛亮は上奏し、次のように述べました。

「先帝が崩御なされてから、李平は行く先々の任地で家産を蓄え、施す恩徳は小さく、自己の保身に勤めて名誉を求め、国を憂いる態度がありませんでした。

わたくしが北方へ出陣するにあたり、李平の軍に来てもらい、漢中の抑えにしようと望んだところ、李平はあれこれと理由を申し立て、少しも来ようとする気配を見せませんでした。

それにもかかわらず、五郡をもって巴州を設け、そこの刺史しし(長官)にしてくれと要求してまいりました。

(蜀は益州の一州のみを支配し、諸葛亮が統括していましたが、それを二つに分けて自分に担当させてくれと、李平が要求してきたことになります。)

昨年、臣が西征をしようとして、李平に命じて漢中を治めさせようとすると、李平は魏の司馬懿らが幕府を開き、属僚を招聘しょうへいしているから、自分も同じ扱いにしてくれと申し出てきました。

私は李平が卑しい気持ちから、軍が進発する機会につけ込み、臣に迫って私益を得るつもりなのだと悟りましたので、上表をして李平の子の李豊に、江州を治めさせることにしました。

そうして処遇を高めてやり、その場の要求を取りつくろったのです。

李平が漢中にやってくると、あらゆる仕事を任せましたが、群臣は上下を問わず、みなが私の李平に対する厚遇ぶりを、いぶかしく思っていました。

大業がまだ成就せず、漢の王室が危機に瀕している今、李平の誤りを問題にするよりは、彼をおだて、用いる方が得策だったのです。

しかしながら、李平の心は栄誉と利益の追求のみにあると考えており、彼の心がここまで乱れたものだったとは、思いもしませんでした。

もしも処置を遅らせると、災いを招くことでしょう。

これは臣の不明の結果であり、説明をすればするほど、臣の責任が大きくなる次第です」

この上表を見るに、諸葛亮は李平が欲深いという欠点を持っていたことは理解していましたが、能力があったので、やや過剰ながらも厚遇を与えつつ、魏を打ち破るための人材として用いていたことがわかります。

諸葛亮の元には、他にも魏延や楊儀ようぎといった、能力はあるものの、人格に問題を抱えた人材がいましたが、彼らの力を活用しなければ、戦力で劣る蜀が、強大な魏を打倒することはできないだろうと、現実的な判断を下していたのでしょう。

しかしながら、李平の見苦しい責任転嫁のふるまいは、完全に許容範囲を超えたものであり、このために処罰を下すことにしたのです。

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