諸葛亮が逝去し、李平は病に倒れる
しかしこの事件から3年後の234年に、諸葛亮は遠征先の五丈原で病に倒れ、帰らぬ人となりました。
そして李平は諸葛亮が世を去ったと聞くと発病し、まもなく死去します。
李平は常日頃から、諸葛亮がいずれは自分を復帰させてくれるだろうと、期待していました。
しかし諸葛亮の後を継ぐ者はそうしてくれないだろうと判断し、心を痛めて発病してしまったのです。
李平はことのほか名誉心が強い人物でしたので、失ったそれを取り戻せないと悟った時に、生きる意欲が失われてしまったのだと思われます。
後に子の李豊は、朱堤郡の太守にまで昇進しており、その後も父とは別に、用いられ続けたのでした。
諸葛亮が称賛される
この李平と諸葛亮との関わりについて、史家の習鑿歯は次のように述べています。
「昔、管仲(斉の宰相)は伯氏の駢邑(領地)三百戸を没収した。
このため、伯氏は食べ物にも不自由したが、生涯にわたって怨みがましい事は言わなかった。
これは聖人(孔子)も「なかなかできないことだ」と評している。
諸葛亮は、その死によって廖立に涙を流させ、李平を死に至らしめた。
これはただ単に、恨みがましい言葉を言わせなかったというだけではない。
そもそも、 水は完全に平らかなので、傾いたものはそれを手本にする。
鏡は何もかもを明らかに写すが、醜い者はそれを見ても腹を立てはしない。
水や鏡が物事の本質を究明しながらも、怨恨を抱かせないのは、それらに私心がないからである。
水や鏡でさえも私心がなければ、非難を免れることができる。
ましてや、君子が生命をいとおしむ心を抱き、憐れみと思いやりの徳を施し、用いざるを得ない場合にのみ法を行使し、自分から犯した罪にのみ刑罰を加え、私心によらずに封爵を与え、怒りによらずに処罰を行うならば、天下に服従しないものはいない。
諸葛亮はこういった次第で、刑罰の行使が的を得ていたと言える。
これは秦・漢以来、絶えてなかったことである」
このように、諸葛亮によって罰を受けたにもかかわらず、李平が怨みを抱いていなかったことから、諸葛亮の処置が公正だったことが証明されていると、指摘がなされたのでした。
李厳評
三国志の著者・陳寿は、李厳を次のように評しています。
「李厳は才能によって栄達し、尊重された。
しかしその行動を観察し、品行をたどってみると、災いを招いて罪を得たのは、身から出た錆だった」
また、『季漢輔臣賛』では、次のように書かれています。
「李厳は先主(劉備)より遺命を受け、その後の政治に参与することになった。
しかし意見を述べず、協調することもなく、道にはずれた言動をした。
このために世から追放され、任務も功績も失った」
このように、手厳しい評となっています。
ここまで見てきた通り、李厳は統治能力があり、法律の制定に関わり、軍事も得意であるなど、有能な人物でした。
劉備が諸葛亮とともに後事を託したのも、その点が見込まれたからでした。
しかし李厳は欲が深く、名声を重んじすぎ、このために誤りを認めることができず、全てを失うことになりました。
李厳と同郷の蜀臣に、陳震という人がいましたが、彼はあるとき諸葛亮に対し「正方(李厳)は腹の中にとげがあって、郷里の人も近づけない」と話したことがあります。
李厳は若い頃からずっとそのような性格であり、最終的に失脚をしたのは、必然的な結果だったのかもしれません。
能力だけでなく、人格も磨かなければ、生涯をまっとうするのは難しくなるのでしょう。
