劉琰 蜀の高官となって贅を尽くすも、妻の不貞を疑って処刑される

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妻の不貞を疑う

成都に戻された後、劉琰は希望を失ってぼうぜんとしていました。

やがて234年の正月になると、劉琰の妻・氏が太后(劉禅の義母)に年賀の挨拶をするため、宮殿に参内します。

太后は胡氏を気に入っていたようで、特に命令をして、一か月ほど宮殿に留まらせました。

すると、胡氏は美人だったので、劉琰は彼女が主君である劉禅と私通をしたのではないかと疑います。

そして卒(兵士)を呼んで胡氏をむちで打たせ、くつでその顔を殴ってから離縁をしました。

しかし宮中に留めていたのは太后でしたので、これは濡れ衣でした。

劉琰がこのようなふるまいに出たのは、鬱々と日を過ごすうちに、精神の均衡を欠くようになっていたのが、原因だったのではないかと思われます。

告訴され、処刑される

胡氏はこの仕打ちに怒り、事情を述べ立て、劉琰を告訴しました。

すると訴えが認められ、劉琰は投獄されます。

取り調べを行った司法官は、「卒は妻に鞭をふるうべき者ではないし、顔は靴を受けとめるべき地ではない」と意見を述べました。

こうして劉琰に非があると認定されると、間もなく市場で処刑されました。

これはおそらく、主君である劉禅が妻と不貞を働いたと、邪推したことが特に問題視されたのでしょう。

明らかに不敬な考えで、行いだからです。

劉琰はそのような道理がわからなくなるほど、うろたえていたようです。

この事件が原因となり、以後は大臣の妻や母が、正月に参内する習慣が絶えています。

劉琰評

三国志の著者・陳寿は「劉琰は古くから仕えたので、尊重された。

品行を見るに、その身に災いを招いて罪を得たのは、自業自得である」と評しています。

結局のところ、劉琰は名族の出身で、ちょっと話がうまいだけの人物であったようです。

長く劉備に随行していたために尊重されるようになり、高い地位につきましたが、当人が言うとおりに実質が乏しく、このために立場を失うことになりました。

さほど記録に値する人物にも見えませんが、三国志には劉琰のように、蜀の高位に登りながらも、転落した人々のことが記されています。

賢者だけでなく、愚者も記録するのが史書の役割なのかもしれません。