蒋琬の返答
これに対する蒋琬の返答は、次のようなものでした。
「世にはびこる悪を取り除き、災難を抑えるのは、臣の職務として引き受けなければならないことです。
ご命令を受け、漢中に駐屯するようになってから、すでに6年が経過しました。
私は暗愚な上に、病にかかったため、計画を実施できず、朝も夕も悩み、心を痛めています。
現在、魏は九つの州を支配し、その基盤はいよいよ強固となり、打倒するのは、今の時点では容易ではありません。
もしも東西(呉と蜀)が力を合わせ、呼応して魏を攻撃するならば、すぐには目的を達成できないとしても、魏の領土の一部を切り取って蚕食し、打撃を与えることはできるはずです。
しかしながら、呉は約束を違え、何度も決行をためらいました。
起きている間には、そのことを考えて苦しみ、寝食を忘れてしまうほどです。
涼州の蛮族が住む要害の地は、進むにも退くにも頼りとなり、魏が重視しているところです。
一方で、羌族(涼州に住む異民族)は、我らの領土である漢中に入ることを渇望しており、また昔、一軍が羌に侵入した際に、魏の雍州刺史・郭淮を撃破したこともあります。
その優劣を測るに、涼州は真っ先に目をつけ、手に入れるべき土地だと、費禕らと議論するたびに申しています。
どうか姜維を涼州刺史にご任命ください。
もしも姜維が征伐に赴き、黄河の西を制圧したならば、臣は軍を率いて姜維の後に続き、抑えにあたりましょう。
現在、涪は水陸の両道によって四方に通じており、ここに軍を置けば、緊急事態が発生しても、すぐに対応することができます。
我が国の東北(漢中)で面倒な事態が発生しても、そこから駆けつけるのは難しいことではありません」
このように、蒋琬は従来の諸葛亮の、北方を先に制するという方針に立ち返ることを決めました。
そして蒋琬は涪に移動し、そこに駐屯することになります。
間もなく死去する
こうして蒋琬は、新しい戦略をたてて動こうとしましたが、まもなく病気が悪化してしまい、246年に亡くなっています。
恭と諡されました。
書状の中で、呉との連携がうまくいかず、寝食を忘れるほどに苦しんでいたことが書かれていますが、蒋琬は蜀という小国の力をもって、魏という大国を打倒するという、難しい課題を与えられていました。
それをどうにかしようと心を悩ませた結果、体を損なって病にかかってしまい、亡くなったのだと思われます。
諸葛亮もまた病に倒れましたが、蜀の国家として目標である、中原を取り戻して漢を再興するという望みは、それを背負う者に、大きな重圧を与え、寿命を縮ませてしまったのかもしれません。
蒋琬評
三国志の著者・陳寿は、蒋琬を次のように評しています。
「蒋琬は何事も折り目正しく威厳があり、諸葛亮の定めた規範を受け継ぎ、その方針にそって改めなかった。
そのために辺境地帯は安定し、国家は和合していた。
しかしながら小さな街を治める道は、十分にわきまえていなかった」
このように、基本的には褒めているのですが、県長時代に問題があったことを指摘しています。
これに対し、三国志に注釈を付けた裴松之は、「蒋琬は宰相として国民を一つにまとめるように心がけ、功業を求めていい加減な軍事行動を起こすことはなかった。
そして国に損害を与えることなく、国家安定の実を保った。
小さな街を治められなかったことが、それほど大きな問題だろうか」と、陳寿の評に疑問を呈しています。
実際のところ、蒋琬は諸葛亮という偉大な前任者の後を継ぐという難しい立場にありましたが、蜀の国力を損わず、魏につけいる隙を与えず、その任をまっとうしました。
その功績に比べると、県長時代の失敗などは、たいしたことがなかったと言えるでしょう。
蒋琬が宰相となっていた時期には、魏の体制が盤石であったため、軍功は立てられませんでしたが、彼が政治家として優れた人材であったことは、間違いがないと思われます。