成都で留守を守る
諸葛亮はやがて、魏を討伐するために、北伐の実施に取りかかりました。
その際に諸葛亮は、首都である成都に留府(留守政府)を設け、益州の統治と後方支援を任せます。
そして諸葛亮自身は前線である漢中に駐屯し、攻撃の指揮をとりました。
この時、蒋琬は長史(副官)の張裔とともに、留府の担当者となり、国政の事務を取り仕切りました。
そして230年になると、張裔に変わって長史に就任し、撫軍将軍の官位を加えられています。
馬謖の処刑を惜しむ
北伐の頃の蒋琬には、馬謖の処刑を惜しんだという話があります。
諸葛亮は初めて北伐を実施した際、寵愛していた馬謖に、攻撃拠点の抑えを任せました。
しかし馬謖は命令違反を犯して拠点を失い、作戦をだいなしにしてしまいます。
このために諸葛亮は、やむなく馬謖を処刑したのですが、蒋琬は漢中を訪れた際に、「天下がまだ平定されていないのに、智謀の士を処刑してしまったのは、残念なことです」と諸葛亮に伝えました。
これに対し諸葛亮は、涙を流しつつ「孫武(孫子)が勝利を得ることができたのは、法の執行が明確だったからだ。
国内が分裂し、これから戦いが始まろうというときに、もしも法を無視すれば、どうして逆賊を討つことができよう」と答えました。
このことから、蒋琬は馬謖の才能を評価しており、また、諸葛亮と込み入った話ができる間柄だったことがうかがえます。
諸葛亮は後継者に蒋琬を指名する
諸葛亮はその後、たびたび魏への攻撃を実施しましたが、蒋琬はいつも兵糧と軍兵を充足し、遠征軍への供給を行いました。
諸葛亮はつねに、「公琰(蒋琬の字)は公正と忠義を旨としており、私とともに王業を支えるべき人物だ」と言い、高く評価します。
そして内密に劉禅に上奏し、「臣にもし不幸があれば、後のことは蒋琬に任せてください」と伝えていました。
こうして蒋琬は、諸葛亮の後継者の地位を得ることになります。
大将軍・録尚書事となり、蜀の指導者となる
やがて234年に諸葛亮が没すると、蒋琬は尚書令(政務長官)に任命され、まもなく行都護(軍府長官)の官位が加えられました。
そして仮節となり、益州刺史(長官)を兼任し、大将軍・録尚書事に昇進しました。
これは蒋琬が蜀の軍事と政治の頂点に立ったことを意味し、諸葛亮が得ていた地位を、丞相を除いて引き継いだのだと言えます。
そして安陽亭候の爵位も与えられました。
こうして蒋琬は、かつての夢の占いのとおりに、「公」と呼ばれるほどの地位についたのでした。
人々からの支持を得る
蒋琬が大将軍に就任した頃には、諸葛亮を失ったことで、蜀の者たちはみな、危惧の念を抱いていました。
蒋琬は抜擢を受け、諸官らの最上位に位置することになりましたが、悲しみも喜びも見せず、その態度は落ち着き払い、平時と変わることがありませんでした。
このため、次第に人々からの信頼を得るようになり、蜀の指導者としての地位を確立していきます。
このあたりは人心を落ち着かせるために、意図的に平静を保つように心がけていたのでしょう。
こうして蒋琬は、自らが諸葛亮の後継者にふさわしい人物であることを示していきました。
魏への攻撃を命じられる
諸葛亮死後の混乱が鎮まったころ、238年になると、蒋琬に次のような詔が下されます。
「戦火はいまだ収まらず、曹叡(魏の皇帝)は傲慢で凶暴な男である。
遼東の三郡はその暴虐に苦しみ、ついに離反するに至った。
曹叡は大軍を動員してこれに攻撃をかけている。
昔、秦が滅亡したのは、陳勝・呉広の反乱が口火となった。
現在のこの事変は、天の与えた好機であると言える。
君よ、戦いの準備を整え、諸軍を統率して漢中に駐屯し、呉の行動開始を待って、東西より呼応して敵の隙に乗じよ」
劉禅は蒋琬に漢中で幕府を開かせ、軍事活動の準備を行わせました。
そして翌年、漢中に使者を送って大司馬(軍の最高位)の官位を加えています。
詔にいう「遼東の三郡の離反」とは、公孫淵が魏に対して起こした反乱のことを指しています。
益州とは正反対の、中国の北東部で起きた反乱ですが、蜀はそれに乗じて魏に攻めかかろうとしたのでした。
なお、この反乱は司馬懿の速攻によって鎮圧され、蜀も呉も、つけいることはできない結果に終わっています。
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