楊戯への対応
蒋琬には、いくつかの度量の大きさを示す逸話があります。
東曹掾(属官)の楊戯は、大ざっぱで怠惰な性格の持ち主で、蒋琬と議論をする際にも、返事をしないことがありました。
その様子を見ていたある人が、楊戯を陥れようとして、蒋琬に告げました。
「公が楊戯に話しかけていらっしゃるのに返事をしないとは、楊戯の目上の者を軽んじる態度には、目に余るものがありますな」
すると蒋琬は、次のように答えました。
「人の心が同じでないのは、それぞれに顔が違うのと同じことだ。
面と向かい合ってる時には従い、後で文句を言うような行いは、昔の人が戒めている通りに、よろしくない。
楊戯は、わしの方針に賛成すれば、その本心に違うことになり、わしの言葉に反対すれば、わしの非を明らかにすることになると考え、それで沈黙をしていたのだ。
楊戯の態度は爽やかなものだと言えよう」
そして楊戯を咎めることはありませんでした。
楊敏への対応
またある時、督農(食糧の管理官)の楊敏が蒋琬を非難し、「事を行うにあたって右往左往し、全く前任者(諸葛亮)には及ばない」と述べました。
ある者がそれを蒋琬に報告し、係官が楊敏を取り調べたいと願い出ました。
それに対し、蒋琬はこう言いました。
「わしは事実、前任者に及ばないのだから、取り調べる必要はない」
こうして蒋琬が取り調べは不要だとしたのに、係官は問題を蒸し返し、今度は「右往左往している」と言った件について楊敏を尋問したい、と申し出ました。
すると蒋琬は「仮にも及ばないのであれば、事はうまく処理できない。
うまく処理できないのであれば、右往左往することになる。
いったい何を尋問するというのかね」
このように述べ、あくまでも楊敏を不問にしています。
後に楊敏はある事件で罪に問われ、獄につながれました。
先に蒋琬のことを非難していましたので、彼は死刑に処せられるだろうと、人々は心配しました。
しかし蒋琬は、個人の感情によって法を曲げたり、判断を下したりする人間ではなかったので、重罪を免れることができました。
蒋琬は好悪の感情を振りかざすことなく、道理を元にして、物事を処置していたのでした。
諸葛亮から後継者として指名されたのは、そのような公正な人格の持ち主だったからでしょう。
このようなわけで、蒋琬が健在なうちは、蜀に統治面での問題は発生しませんでした。
諸葛亮とは別の方面を攻めようとする
諸葛亮は「北伐」と言われるように、益州の北にある涼州に攻め込んでいましたが、州の間の道が険しく、食料や物資の輸送が困難だったために、ついに成功を収めることができませんでした。
このため、蒋琬は水路を通って東方に向かった方が良いのではないかと考えます。
そこでたくさんの船を作り、漢水や沔水を通って、魏興や上庸方面を襲撃しようと計画しました。
しかし、この頃から蒋琬は病にかかってしまい、なかなか遠征を実行に移すことができませんでした。
そうこうするうちに、蒋琬の計画を聞いた蜀の中枢の人々は、もしも東を攻めて勝利を得られなかった場合、帰還するのが大変に難しくなるため、優れた計略ではないという評価を下しました。
そして243年に尚書令の費禕や、中護軍の姜維らを通し、劉禅の意向という形でその旨を伝えます。
【次のページに続く▼】