孫乾 儒学者としての人脈によって、劉備の外交官として活躍

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袁尚への手紙に記される

袁紹が202年に亡くなると、長男の袁譚えんたんと三男の袁尚えんしょうが、後継者の地位を巡って争うようになります。

劉表はかつて、袁紹と同盟を結んでいましたので、この事態を嘆き、袁尚をいさめる手紙を送りました。

そこには「劉左将軍(劉備)や孫公祐(孫乾)と、あなた方の争いについて議論するたびに、骨の髄までこたえるほどに心を痛ませています。そしてあなた方のために悲しんでいます」と記されていました。

こうした時に名前が出てくるほど、孫乾は劉表と深く関わり、重要な議論に参加していたことがうかがえます。

また、名前が袁尚にも通じる存在だったこともわかります。

孫乾は各地の領主たちと対等に議論ができ、ゆえに尊重される存在だったのでした。

また、劉表自身も儒学者として知られる存在でしたので、同じ学問を修めた孫乾とは、話が合いやすかったのも、親しくつきあっていた理由になっていると思われます。


【孫乾を尊重した劉表 彼もまた儒学者として知られる存在だった】

将軍位を与えられる

やがて214年に劉備が益州を平定すると、功臣たちに高い地位を与えました。

この時に孫乾は秉忠へいちゅう将軍に任命され、長年に渡る功績に報いられています。

これは同じ働きをしていた糜竺に次ぎ、簡雍かんようと同等の待遇です。

糜竺の方が上だったのは、彼は妹を劉備に嫁がせて姻戚となっており、多額の資金を劉備に援助していたためでした。

彼らの将軍位は名のみで、実際に兵を率いることはなく、重臣としての栄誉が与えられたのだと言えます。

孫乾はそれからしばらくして、逝去しました。

孫乾評

三国志の著者・陳寿は「孫乾らはみな、見事な議論を展開し、その時代において礼遇された」と短く評しています。

孫乾は他の蜀の人物と同じく、残された記録が少なく、人となりを伝える逸話などがありません。

このため、師の名声によるつながりと、自身の学識をもって、各地の領主たちと劉備を結びつけていた、ということしかわからなくなっています。

劉備は荊州と益州を得るまで、各地を転々として生き延びていましたので、孫乾のように、群雄たちと上手に交渉できる人材を必要としていました。

孫乾はそれに適していたので、劉備に大事にされ、流浪の旅にもついて行ったのでしょう。

それにしても、劉備の身分はずっと不安定だったのに、生涯に渡って尽くしてくれる相手が多かったのは、不思議なことだと感じられます。

それほど劉備は側にいる人たちの心を、一度つかんだら離さない力が強かったようです。

また孫乾の場合は、曹操が儒学を敵視していましたので、それゆえに、逆に儒学を尊重する劉備に随従した、という面があったと思われます。