自分を用いるようにと求める
黄初六年(二二五)になると、曹丕は東征し、雍丘に立ち寄って曹植の宮殿に行幸します。
そして五百戸を加増しました。
しかし太和元年(二二六)になると浚儀に国替えされ、翌年にはまた雍丘に戻されました。
こうして頻繁に国替えし、曹植の状況を落ち着かせないようにと曹丕は努めていたのです。
曹植はかねてより、才能がありながらも用いられないことを恨んでいたので、上表し、自分を試してくれるようにと求めました。
高い位を受けているにも関わらず、国家に貢献できないことを悔やんでおり、蜀や呉を討つのに用いるようにと訴えます。
しかしなおも疑われ、用いられることはありませんでした。
このため、曹植はいたずらに生活をむさぼるのではなく、功績を立て、徳行を積むことを望んでいるのに、それが果たせない無念を語っています。
再び国替えされ、上奏する
太和三年(二二九)年になると、曹植は東阿に国替えされました。
それから太和五年になると、親戚の元を訪れることの許しを求め、一緒に自分が考えていることを上奏します。
この時に曹植は、友人関係どころか、親戚との間の交際さえも禁じられていることを嘆き、それを許してもらえるようにと求めています。
そして自分を側に置き、役に立ててほしいとも望みました。
これに対し、曹丕は親戚の間の交際を断つ命令は出しておらず、小役人が勝手にしているのだろうと返答します。
曹植はこれに対し、重ねて上奏し、官吏の登用の仕組みの見直しと、親類を信頼し、朝廷に用いて体制を堅固にし、遠征は人に任せるようにとも進言します。
曹丕は丁寧に返答をしましたが、やはり曹植のみならず、親類を積極的に起用することはありませんでした。
諸国の人間が挑発される
曹丕はそれどころか、兄弟たちが治める諸国から、若者をおおいに徴発します。
これによって、弟たちが実力を持てないようにと図ったのです。
曹植は、諸国の若者が挑発されたばかりで、残された子供たちが幼く弱く、人がほとんどいなくなってしまったのに再び徴発されたので、これに反対するために上奏しました。
曹植は、自分が王室の盾として位置づけられながらも、王として東に領国を得た際に、腰がまがった老兵二百人しか与えられなかったと述べます。
ただでさえ人がいないのに、そこに若者を何度も供出させられたので、手元には七才から十七才の子供が三十人程度、年老いて臥せている老兵が三十七人、病人が二十三人しかいなくなったとしています。
このありさまから、曹植らは王号を持ちながらも、まるでふさわしい実質を与えられていなかったことがわかります。
そして生活に余裕がなく、暮らしが一般庶民と変わらないので、いっそのこと兵や官吏をすべて国家に返還し、隠者の暮らしをしたいと望んでいると告げます。
しかしそれは許されないだろうから、肉親に温情を与え、仁徳のある処置を取るようにと求めました。
これを受け、曹丕は徴発した若者たちを返還しました。
曹丕が弟たちに苛烈な措置をとっていたことが、浮かび上がった事態だと言えます。
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