譙周が後を継ぐ
杜瓊は80才を過ぎた頃、250年に亡くなりました。
『韓詩章句』という十余万言にのぼる著述をしましたが、子供たちに教えなかったので、その讖緯(予言)の術を継承する者はいませんでした。
一方で譙周は杜瓊に習ったことを基にして、他の事象の解釈に用います。
ある時、次のように述べ、蜀漢の行く末を予測しました。
「『春秋左氏伝』には、晋の穆候が太子に『仇』と名づけ、その弟を『成師』と名づけたと記されている。
その時、晋の大夫(家臣)である師服は『主君の名づけられ方は妙なものだ。
よき相手を妃といい、恨む相手を仇という。
主君は太子に仇と名づけられ、弟君を成師と名づけられた。
これは混乱の兆しだと言える。
兄君が廃嫡されることになるかもしれない』と言った。
その後、師服の言うとおりになった。
また、漢の霊帝は二人の子に史候・董候と名づけられたが、二人とも皇帝になった後で位を追われ、諸侯になった。
(董卓に廃位された劉弁と、曹丕に廃位された劉協のことを指しています)
これは師服の件と類似した現象である。
先主(劉備)の諱は備であり、その字義は具、つまり『完結する』という意味だ。
そして後主(劉禅)の諱は禅であり、その字義は『授ける』という意味だ。
これによって『劉氏は完結し、他人に地位を授けるべし』という意味になる。
穆公や霊帝の名づけよりも、ひどいものだと言えよう」
このようにして、譙周は漢が遠からず終焉することを予測したのでした。
大樹が折れる
後に蜀の宮中では、宦官の黄皓が権力を握り、国勢が衰えていきました。
すると景耀五年(262年)に、宮中にあった大樹が、何事もなかったのに折れるという事件が発生します。
譙周はこの事件に懸念を抱きましたが、話し合う相手もいなかったので、柱に次のように書き付けておきました。
「衆にして大であれば、期日を定めて人は集まってくる。
一方で完結して授けたのであれば、どうして復すことができようか」
曹という言葉には『衆(民が多い)』という意味があり、魏には『大』という意味がありました。
衆にして大であれば、天下の人々が集まってくる。
一方で、劉氏が完結して授けたならば、さらに即位する者はいないだろう、つまり蜀漢はもう終わるだろう、と譙周は予測したのでした。
予測が的中し、譙周は杜瓊を称賛する
この翌年に蜀が滅亡したため、人々は譙周の言葉が的中したことを知り、評判になります。
これに対し、譙周は言いました。
「先の言葉は自分が推論したものだが、基盤となるものがあった。
私は杜君(杜瓊)の言葉を基にして、それを押し広げてみせただけだ。
玄妙な心の働きにより、独力で特別な場所に到達したわけではない」
このようにして、杜瓊こそが優れていたのだと述べ、その学識を称賛したのでした。
このことから、譙周の誠実な人柄をうかがうことができます。
杜瓊評
三国志の著者・陳寿は「杜瓊は沈黙を守って慎み深く、純粋な学者であった」と評しています。
人は未来を予測する術を身につけると、それを使って正しさを証明したくなるものですが、むやみに口外せず、子供にすら教えなかったところに、杜瓊の賢明さが現れていると思われます。