羽柴秀吉はどうして清洲会議や賤ヶ岳の戦いで、柴田勝家に勝利できたのか?

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織田信長が本能寺の変で急死した後、織田氏の内部では、羽柴秀吉と柴田勝家の抗争が発生しました。

秀吉は、信長を殺害した明智光秀を討った功績によって、それまで筆頭家老であった勝家よりも有利な立場を手に入れます。

そして信長の遺産の分配を話し合う「清洲会議」で自分の意見を通し、領地の大きさでも、立場の強さでも勝家を上回るようになりました。

勝家は秀吉に対抗するため、外交によって味方を増やしつつ、近江の賤ヶ岳(しずがたけ)で戦いを挑みますが、秀吉に敗れて滅亡しています。

この文章では、秀吉がいかにして勝家に勝利し、信長の後継者になったのか、について書いてみます。

【秀吉の肖像画】

信長配下の軍団長

信長は1580年ごろまでに畿内を制圧すると、各地方に軍団長を派遣し、天下統一事業を推し進めて行きました。

この過程で、筆頭家老である柴田勝家は北陸を担当する軍団長となり、越中や越後を支配する上杉景勝と対決しています。

これに対し、秀吉は中国地方を担当し、毛利輝元の領地を奪い取って行きました。

秀吉の立場はこの時、三〜四番家老といった程度の身分で、勝家よりも格が下でしたが、1582年に発生した政変によって、この状況が変化していくことになります。

本能寺の変

1582年の6月に、秀吉からの援軍要請を受け、信長が中国地方に出征することになりました。

信長はこの時に、畿内の軍団長である明智光秀にも出兵を命じ、自らもわずかな供を連れ、6月2日に京の宿舎である本能寺に入ります。

すると、光秀は突如として謀反を起こし、本能寺を襲撃して信長を殺害しました。

この「本能寺の変」によって、達成が時間の問題となっていた信長の天下統一は、中途で終焉を迎えることになります。

そして、信長の後継者の地位をめぐる争いが発生しました。

中国大返し

本能寺の変が発生した時、秀吉は備中(岡山県西部)の高松城で毛利軍と対戦し、これを追い詰めて和睦交渉を行っていました。

そして領地の割譲や、城主の清水宗治の切腹を条件に、和睦を成立させようとしていたところで、信長が横死したという知らせを受けます。

秀吉にとってこれは危機であり、同時に好機でもありました。

秀吉はこの情報を隠蔽したまま、急ぎ毛利氏との和睦をまとめ、3万の軍勢を撤退させ、本拠地の播磨(兵庫県)にある姫路城へと引き返します。

この時の秀吉軍の撤退は非常に素早く、「中国大返し」という名で呼ばれています。

秀吉の多数派工作

秀吉は自身の軍団とともに、わずか3日で姫路城に戻り、1日の休養を取った後、さらに3日ほどで摂津(大阪府)の尼崎に到着しました。

これは信長の死を聞いてからわずか7日後、6月11日のことでした。

そして行軍の途中で池田恒興や高山右近、中川清秀など、摂津の諸大名たちと連絡を取って味方につけ、信長の三男・織田信孝や、二番家老・丹羽長秀の軍勢も吸収しつつ、京へと進軍を開始しました。

光秀もまた、諸大名を味方につけるための工作を行っていましたが、秀吉が大軍を率いて迅速に畿内に戻ってきたことが影響し、ほとんど味方を増やすことはできませんでした。

このため、秀吉は4万近い軍勢を集めたのに対し、光秀の軍勢は1万5千程度であったと言われています。

秀吉が行軍を急いだのは、光秀に味方をする者が増えるのを防ぐのと、誰よりも早く主君の弔い合戦に駆けつけたのが自分であると、世の人々に知らしめるためであったと考えられます。

事実、この秀吉の急行軍によって光秀は不利な状況に置かれ、他の織田氏の家臣たちは、秀吉の風下に立たされることになっていきました。

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