涼州で再起する
馬超は涼州に逃れると、羌族などの異民族たちをとりまとめ、配下に収めます。
このあたりは、羌族の血を引いていたことが、馬超に機会を与えたのでしょう。
この事態をみて、馬超を放置しておくと、涼州が危機に陥るのではないか、と曹操配下の楊阜が危惧し、そのように進言をしていました。
しかし曹操は北の方で起きた反乱に対処するために、馬超を放置せざるを得なくなります。
このため、馬超はその隙をついて涼州の郡県を攻撃し、支配下に置きました。
涼州を支配するも、反抗にあう
馬超はこうして勢力を盛り返すと、涼州刺史(長官)の韋康を攻撃し、殺害しました。
そして冀城を拠点として、涼州の軍勢をも麾下に編入します。
こうして勢力を築いた馬超は、自ら征西将軍・并州牧を名のり、涼州の軍事総督にもなりました。
しかし韋康の部下たちは馬超に従わず、楊阜・姜叙らが共同して攻撃をしかけてきます。
彼らが鹵城で兵を挙げたので、馬超は討伐に向かいますが、攻め落とすことはできませんでした。
その隙に冀城を敵に乗っ取られてしまい、馬超は本拠を失います。
これほどに抵抗が激しくなったのは、馬超は涼州で従わなかった将をむやみに殺害したため、反感が強まっていたからです。
こうして進退が窮まった馬超は、やむなく涼州から逃れ、漢中の張魯を頼って落ちのびました。
張魯との関係はうまくいかず
張魯は名高い馬超がやって来たため、祭酒という指導者の立場を与え、自分の娘と結婚させようとします。
しかし「馬超は身内を愛さない人間です。どうして他人を愛することができるでしょう」と諫めた人がいたので、張魯はもっともだと思い、取りやめました。
馬超は張魯に兵を借りて涼州を奪取しようとしましたが、これに失敗し、評価が下がっていきます。
やがて張魯の将軍・楊白が馬超を批判しはじめたので、これ以上、漢中にとどまっても将来はないと考え、馬超は益州に来ていた劉備に書状を送りました。
劉備に迎えられる
この頃に劉備は益州を支配する劉璋と戦い、成都に追いつめています。
劉備は馬超から臣従したいという申し出を受けると、「わしは益州を手に入れたぞ」と言って、おおいに喜びました。
益州もまた、精強な異民族を多く抱えた地域ですので、彼らを味方につけられる馬超の存在には、高い価値があったのです。
劉備は軍兵を遣わして馬超に与え、容儀を整えさせると、指揮官として成都にやってこさせました。
成都に立て籠もっていた劉璋は、馬超がやってきたと知ると大変に怖れ、ただちに劉備への降伏を決意しました。
成都にはまだ三万の将兵と、一年分の物資が残っていましたので、馬超が降伏を早めさせたのは、大きな功績となります。
やや低下していたとは言え、曹操を苦戦させた馬超の盛名は、まだ十分な効果を持っていたようです。

劉備の元で高位を得る
馬超は劉備の配下となると、荒ぶったところが収まっていきました。
劉備からすぐに平西将軍に任命され、都亭候にも封じられます。
そして劉備が漢中を奪取し、曹操を撃退して漢中王になると、左将軍に任命されました。
これは関羽や張飛と同格の立場であり、新参でありながら、劉備軍の中枢に位置したのだと言えます。
さらに昇進する
221年になると、劉備は蜀漢の皇帝となり、馬超を驃騎将軍(軍の序列二位)に任命します。
そして涼州の牧(長官)を兼務させ、斄郷候に昇進させました。
これは馬超を、涼州攻略の指揮官として用いるためだったのでしょう。
劉備は次のように辞令を下しています。
「君の信義は北方の地に明らかで、威光と武勇はともに輝きわたっている。
だから君に任務を委ね、虎のごとき勇猛さをもって、万里のかなたまで正しく治め、民衆の苦しみを救わせるのである。
我が朝廷の教化を広め、明らかにし、遠近の民をなつけ安んじ、賞罰を慎重に執り行い、漢朝の王者たるべき幸運を固め、天下の人々の望みに答えよ」
翌年に死去する
しかし馬超は、この翌年に死去しています。
享年は47でした。
馬超は死に際し、「私の一門は曹操によって誅殺され、ほとんど絶滅しました。
ただ従兄弟の馬岱だけが残っていますので、絶えかけた家の祭祀を継ぐべき男として、陛下にお託ししたいと思います。
あとは言い残すこともありません」と遺言をしました。
劉備はこれを引き受け、馬超に威候の諡を与えました。
馬超には馬承という子があり、後を継いでいます。
他にも馬秋という、妾との間にできた子供もいましたが、こちらは馬超が漢中を去った後、張魯に殺害されました。
一方で、馬氏の長となった馬岱は、平北将軍となり、後に陳倉候にまで昇進しています。
馬超は自らの行いによって一族を衰退させましたが、最後には劉備に仕えることで、なんとか家系を継続させることができたのでした。
馬超評
三国志の著者・陳寿は「馬超は武力と勇猛をたのんで、その一族を滅亡に導いたのは、残念なことである。
しかし窮地から抜け出し、安泰を得ることができたのは、不幸な最期を遂げた者たちと比べれば、まだましだったのではないだろうか」と評しています。
馬超は、曹操に警戒心を抱かせるほどに精強でしたが、その才能はかえって本人にも、一族にも災いとなってしまいました。
そして曹操と戦っていた時期がもっとも精彩があり、以後はさほど活躍できていません。
劉備に仕えた後に戦功はないのですが、人に従う立場では、実力を発揮できない性分だったのでしょう。
だからこそ家族を捨ててまでして、独立のために戦ったのかもしれません。
いずれにせよ、馬超はひとりで強くあろうとしすぎた人物だったのだと言えます。
そしてそうすると、かえって人は弱くなってしまうようです。
『三国志演義』の馬超
演義においては、馬超は「錦馬超」と呼ばれ、虎のような体躯を持った、雄々しい武将として描かれています。
史実と大きく異なるのは、馬騰が曹操に処刑されたので、仇を討つために曹操と戦った、という筋書きに変更された点です。
この流れにするために、馬騰が曹操の暗殺計画に加担していた、という設定が加わり、馬超は父の死後に反乱を起こしたことになっています。
史実通り、馬超が父と弟たちを見捨てて反乱を起こしたと描くと、馬超が嫌われ者になってしまうので、それを避けるための改変だったのでしょう。
演義においては、主人公である劉備の関係者が良い人物に見えるように、いくつか変更が施されています。
以後はさほど変わりがありませんが、曹操との戦いでは勇猛ぶりがより強調されており、曹操を単騎で追撃して追いつめたり、許褚と互角に一騎打ちを行うなどしています。
また、張魯の元にいた時期に、張飛と一騎打ちをしたことにもなっています。
劉備への臣従後は活躍がなく、死去した際の描写がありません。
後に諸葛亮が墓参りをしたために、死亡していたことがわかるようになっています。


