魏延 諸葛亮に従って活躍するも、馬岱に討たれた武将の生涯

スポンサーリンク

魏延ぎえんは劉備に仕えて活躍した武将です。

益州の攻略や北伐で戦功を立て、出世していきした。

しかし性格に難があり、同僚といさかいを起こし、さらに諸葛亮の死後には反乱まがいの騒動を引き起こします。

このため、やがては部下にも見捨てられ、孤立して馬岱ばたいに討たれ、無惨な死を遂げることになりました。

この文章では、そんな魏延の生涯を書いています。

魏延
【資治通鑑に描かれた魏延の姿】

荊州に生まれる

魏延はあざなを文長といい、けい州の義陽郡の出身でした。

生年は不明となっています。

詳しい記録はありませんが、劉備が208年に荊州南部を制圧した頃から、仕えるようになったのだと思われます。

蜀の制圧戦で活躍する

魏延は劉備が益州に遠征した際に随行しましたが、この時はまだ一隊長の身分でした。

しかし劉璋から益州を奪取する戦いにおいて、たびたび功績を立てたので、やがて牙門がもん将軍に昇進し、多くの士卒を率いるようになります。

魏延は叩き上げの軍人だったのだと言えます。

漢中太守に抜擢される

劉備は益州を制圧した後、219年には、さらに曹操から漢中をも奪取します。

そして魏王となった曹操に対抗するため、臣下たちに勧められて漢中王になりました。

漢中は魏の攻撃から蜀を守るための重要な防衛拠点でしたので、劉備は漢中に優れた将軍を配置する必要がありました。

人々の間では、張飛が任命されるだろうと評判し、張飛自身もそうなるだろうと思っていました。

しかし実際には、劉備は魏延を抜擢し、とく漢中・鎮遠将軍に任命し、漢中太守を兼務をさせています。

魏延は張飛に比べると、実績や名声ではるかに劣っていましたので、この措置にはみなが驚きました。

堂々と抱負を述べる

劉備は群臣たちを集め、その前で魏延に質問をします。

「これからそなたに重責を委ねるが、この任務についてどう考えている?」

魏延は次のように答えました。

「もしも曹操が天下の兵をこぞって押し寄せてきましたならば、大王のためにこれを防ぐ所存です。

副将が率いる十万の軍勢が来たならば、大王のために、これを飲み込んでご覧に入れましょう」

劉備は「よきかな」と評し、人々はその答えが見事なものだと称賛しました。

魏延は勇猛で気概が大きく、魏の大軍に攻めこまれても、ひるむ心配のない人物だったのです。

昇進し、爵位も得る

やがて劉備が蜀の皇帝の地位につくと、鎮北将軍に昇進しています。

その後、劉備が亡くなり、劉禅が二代目の皇帝になると、都亭とてい候の爵位を与えられました。

このようにして、魏延は蜀軍の中で着々と地位を築いていきます。

諸葛亮からも重用される

その後、諸葛亮が北伐を開始するために漢中に駐屯すると、魏延を督前部とくぜんぶに任命します。

これは全軍の先鋒の役割を任されたことになります。

そして丞相じょうしょう司馬しばと涼州刺史ししを兼務し、諸葛亮の元で、涼州への斬り込み隊長の役を担うことにもなりました。

魏軍に勝利してさらに立身する

魏延は230年に、諸葛亮の命によって西方の羌中きょうちゅうに侵入します。

そこで魏の後将軍の費瑶ひようや、雍州刺史の郭淮かくわいと、陽谿ようけいの地で対戦しました。

すると魏延は郭淮らの撃破に成功し、この功績によって前軍師・征西大将軍・仮節となり、南鄭なんてい候に昇進しました。

その他にも、司馬懿が攻撃をしかけて来た際に迎撃して防衛に成功するなど、各地で活躍しています。

【次のページに続く▼】