羽柴秀吉はどうして清洲会議や賤ヶ岳の戦いで、柴田勝家に勝利できたのか?

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信孝を降伏させる

さらに秀吉はそのまま美濃へと進軍し、稲葉一鉄などの有力な大名を味方につけ、勢力を増大させます。

そして信孝の家老・斎藤利堯(としたか)が守る加治木城を攻め落とし、信孝を孤立させました。

勝家と連携ができず、岐阜城で孤立してしまった信孝には打つ手がなくなり、三法師を秀吉に引き渡し、母と娘を人質に差し出して秀吉に降伏しました。

こうして秀吉はわずかな期間で長浜城の奪還と信孝の降伏を成功させ、勝家派の勢力を削り取る事に成功します。

滝川一益の挙兵と勝家の出陣

翌1583年の1月になると、伊勢に領地を持つ滝川一益が挙兵して、亀山城や関城などを奪取し、滝川一族の武将たちをそれらの城に配置しました。

そして自身は長島城で籠城し、秀吉軍を迎え撃つ体制を築き上げます。

秀吉は諸勢力への対応もあって、いったん京に兵を引いていましたが、2月には伊勢に侵攻し、滝川勢が守る諸城への攻撃を開始します。

秀吉軍は国府城を攻め落とし、滝川一益の本拠である長島城へと迫りますが、武勇に優れる滝川勢の抵抗は激しく、美濃とは違って容易に陥落させることはできませんでした。

こうした情勢を知った勝家は、滝川一益を見殺しにしないため、2月末には雪をかき分けて道を作り、近江に向けて出陣します。

北近江でのにらみ合い

勝家は前田利家や佐久間盛政らを率い、3万の軍勢を編成して北近江に乗り込みました。

これを知った秀吉は、伊勢に1万の軍勢を残して押さえとしつつ、自らは5万の軍勢を率いて近江の木ノ本に布陣します。

勝家も秀吉はこうして直接対峙したものの、うかつに攻撃をしかけるのは危険だと考え、どちらも盛んに野戦築城を行い、砦や陣地を築いていきました。

また、秀吉と盟約を結んでいた丹羽長秀が若狭(福井県西部)から出陣し、勝家の西進に備えて出兵し、側面から牽制した影響もあって、戦況は膠着します。

信孝が再度挙兵する

こうして近江の勝家と伊勢の滝川一益が、南北から秀吉を挟み込むようにして対決する状況になったのを見て、美濃で信孝が再度挙兵し、岐阜城下へと進軍しました。

秀吉は北の近江、南の伊勢、東の美濃と三方に敵を抱えたことになりますので、これを放置しておくわけにはいきませんでした。

信孝を討つため、秀吉は停滞する近江戦線から離れ、守備隊を残して美濃へと進軍します。

秀吉は美濃に到着したものの、大雨で河川が氾濫していたために足止めを受け、大垣城に入って情勢の変化を待つことになりました。

秀吉が近江から去ったことにより、この戦線では大きな隙が発生したわけですが、これはおそらく、秀吉が勝家に対して誘いをかけたのだと考えられます。

佐久間盛政の進撃

秀吉が戦線から離れたことによって、好機が生じたと捉えた勝家は、配下の佐久間盛政から進言を受けたこともあって、砦から討って出て秀吉軍を突き崩すことにします。

勝家は盛政に出撃を命じ、直ちに秀吉軍の最前線である、大岩山砦への攻撃が開始されました。

ここを守っていたのは戦上手の中川清秀でしたが、盛政の猛攻を支えきれず、あえなく戦死しています。

続いて、近くに布陣していた黒田官兵衛の隊も攻撃を受けますが、こちらは奮戦して持ちこたえました。

盛政は強靱な抵抗を見せる黒田隊への攻撃はあきらめ、岩崎山に布陣していた高山右近を攻撃し、これを撃破することに成功します。

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