北方に向かう
袁尚は敗れた後、北方の辺境に逃れたので、曹操は彼を助ける烏丸族を征伐しようとしました。
臣下たちの多くは、その間に劉表が劉備に命じ、許都を襲撃させるのではないかと心配します。
劉備は袁紹が敗れた後、劉表の客分となって、荊州北部に駐屯して曹操軍と戦っていたのでした。
すると郭嘉が、またも意見を述べます。
「公はその勢威を天下に鳴り響かせていますが、蛮族たちは遠隔の地にいる事を頼みとし、さほどの備えをしていないでしょう。
ですので彼らの油断につけ込み、これを急襲すれば、撃破して滅ぼすことができます。
袁紹は人民や蛮族たちに恩恵を施しており、その子の袁尚や袁熙(次男)はまだ生存しています。
いま、公は北方の民をただ勢威をもって従えているだけで、十分に恩徳を施すには至っておりません。
それを放っておいて南に向かえば、袁尚は烏丸の力を利用して、彼のために決死の思いで働く臣下を手に入れるでしょう。
そして烏丸がひとたび行動を起こせば、北方の民衆や他の蛮族たちが呼応し、それによって蹋頓(烏丸の王)の反抗心が呼び覚まされ、北方で割拠せんとする野心を抱かせることになります。
そうなれば、冀州や青州は我々のものではなくなってしまいます。
一方で劉表は、議論にふけっている人物でしかありません。
彼は自分で劉備を統御するだけの才能がないことは、よくわきまえています。
劉備を重用すれば、おそらく統御しきることができないでしょうし、かといって軽く扱えば、劉備は動こうとはしません。
ですので、国を空にして遠征したとしても、公は何も心配をする必要はございません」
曹操はこれを受け、北方に向かって出発しました。
烏丸を打ち破る策を述べる
そして易に到着すると、郭嘉は曹操に進言をしました。
「軍は神のごとき迅速さを尊びます。
いま千里の彼方に敵を攻撃すれば、輸送隊が多くなり、行軍速度が遅くなって、有利な状況を作り出すのは難しくなるでしょう。
敵はこちらが進軍していることを知れば、必ず防御を固めます。
ですので輸送隊を後方にとどめおき、軽装の兵のみを率い、通常の倍の速度で行軍し、彼らの意表を突くのがよろししいでしょう」
曹操はまたも郭嘉の策を採用し、こっそりと拠点にしていた廬龍塞を出発し、まっすぐに敵の大将である蹋頓の本拠を目指して進軍しました。
敵は曹操が不意に姿を現したと知ると、恐れおののきつつ立ち向かってきます。
曹操はこの時、張遼に先鋒を命じ、白狼山でおおいに彼らを打ち破り、蹋頓を初め、異民族の王たちを切り捨てました。
このため袁尚と袁熙は、はるか遼東にまで逃走しています。
やがて遼東を支配する公孫康は曹操を怖れ、袁尚と袁熙を斬り、その首を送ってきました。
こうして曹操は袁氏の勢力を消滅させ、北方を完全に我が物とします。
袁紹の領地を併呑した曹操の勢力は、並ぶ者がいないほどの規模に膨れ上がり、その体制は盤石なものとなりました。
この成功に対する郭嘉の功績は、非常に大きなものがありました。
病にかかり、やがて逝去する
郭嘉は深く計略に通じ、物事の真実を把握する能力が秀でていました。
このため、曹操はよく「奉孝(郭嘉の字)だけがわしの意図をよくわきまえている」と言っていました。
しかし郭嘉は38歳の時、北方の柳城から帰還すると発病し、やがて危篤に陥ります。
曹操は心配して見舞いの使者を何人も送ったので、彼らが入れ替わり立ちかわり、郭嘉の元を訪れました。
しかし郭嘉は回復することなく、そのまま207年に逝去しています。
曹操は郭嘉の葬儀に出席すると、深い悲しみを見せ、荀攸らに対して言いました。
「諸君は皆、わしと同年配だが、ただ奉孝だけが若かった。
天下の大事を成し遂げたら、後事は彼に託そうと思っていたのに、若死にしてしまった。
これも運命であろうか」
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