最期
項羽は再び追撃軍に斬り込みをかけ、最後の戦いを演じます。
馬から降りても項羽の強さは変わらず、この時にひとりで数百の敵兵を討ち取ったと言われています。
やがて項羽は敵軍の中に、旧知の呂馬童(りょばどう)という男を見つけます。
「劉邦は私の首に千金と一万の食邑の懸賞をかけているそうだな。お前に手柄をくれてやろう」と言って、自ら首を刎ねました。
この時に項羽の遺骸を巡る醜い争奪戦が起き、それは5つに引き裂かれてしまいました。
劉邦はこの時に項羽の遺骸を奪った者たちに対し、約束した報奨を5等分して与えています。
そして項羽に魯公という諸公の待遇を与え、手厚く葬りました。
劉邦にとって恐るべき敵ではありましたが、項羽は劉邦の家族を捕縛してもこれを害さず、和睦した際に劉邦の元に無事に送り返していました。
そういった経緯もあって、劉邦は項羽に対し個人的な憎しみはなかったのでしょう。
どちらかと言えば、強敵を倒したというよりも、災厄をようやく鎮めることができたといったような、安堵感を強く得ていたかもしれません。
こうして大陸に覇を唱えた項羽の勢力は、わずか4年で滅んでしまいました。
劉邦は戦後に漢帝国を建国し、こちらは一時の中断があったものの、400年の長きに渡って中国大陸の支配を続けています。
漢民族が中国大陸の人々を差すようになったのは、この国の名称に由来しています。
項羽はなぜ敗れたのか
これまで見てきたとおり、項羽は戦えばひとりでも数十、数百の敵兵を倒してしまえる最強の戦士でした。
さらに数十万の兵士を指揮することができ、戦術に優れ、戦えば必ず勝利を収める最強の将軍でもありました。
それでいながら、不思議なほどに政治的な感覚を備えておらず、その人格は子どものころからさほど成長していなかったようです。
圧倒的な武力によってすべてを解決できていたので、人と人の間でうまく立ち回って権力を得るための行いである、政治というものに関心を持つ必要がなかったのかもしれません。
そのことが、項羽を極端に武に偏った人間として成立させる要因になったのだと思われます。
一方で劉邦は、内政にも軍事にも取り立てて優れた人ではなく、常に周囲の助けを得てその活動を成り立たせていました。
劉邦はこの時代で、人に手を貸してもらうことに最も秀でた人物で、項羽とは正反対の人格の持ち主でした。
このため、時間が経過していくにつれ、劉邦の元に優れた人材が集まるようになり、自分の武を頼みすぎる項羽の元からは、人材が去っていくようになりました。
最終的には劉邦が、これら多くの武将や軍師たちの力を集合し、最強の個である項羽の力を上回り、討ち破ることに成功しています。
また、項羽は皇帝になるには人格の偏りが強すぎ、世の人々は平凡な劉邦の支配をこそ望んだ、というのも項羽が敗れ去った原因になったと思われます。
後世の人気
同時代の人からすれば、多くの血を流した項羽は恐るべき存在でしかなかったでしょうが、後世からはその強烈な性格と生き様が人々の心を引きつけるようになり、いまも歴史書や演劇の中で生き続けています。
司馬遷は「史記」の中で項羽に対して多くの文量を割いており、「項羽本紀」は名文として知られています。
また、京劇では項羽と虞美人の別れを描いた「覇王別姫」という演目が人気となっており、今でも演じられ続けています。
悲劇は性格がもたらすものだと言われますが、項羽はまさに悲劇を招き寄せる性格の持ち主でした。
よくも悪くも、このように際立った性格の持ち主は、時代が多く過ぎ去っても、人々の心を強く捉え続けるようです。
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弱者であるはずの劉邦が、いかにして項羽を討ち破ることができたのか、その過程がよくわかる構成になっています。
時代の変わり目における、人物群像の物語としても秀逸です