李厳は蜀に仕えて活躍した、文武両道の人物です。
諸葛亮に次ぐ地位を占め、重要な役割を任されました。
しかし性格に難があり、欲深で自尊心が強く、人と協調することができない性質でした。
やがて北伐の際に、食糧輸送に失敗しますが、責任逃れのために詭弁を弄したことを責められ、身分を失いました。
そして諸葛亮が亡くなったために、公職に復帰することが不可能になったと悟り、間もなく発病して死去してしまいます。
この文章では、そんな李厳について書いています。
南陽に生まれる
李厳は字を正方といい、荊州の南陽郡の出身でした。
生年は不明となっています。
若くして郡の官吏となり、才能があったので賞賛を受けました。
このため、荊州の牧(長官)である劉表は、李厳にいくつもの郡県の長官を歴任させます。
こうして李厳は有能な若手政治家として、頭角を現していったのでした。
曹操の侵入を受け、益州に移住する
やがて208年になると、曹操が荊州に侵入してきましたが、 李厳はその時、秭帰県の長を務めていました。
李厳は曹操の傘下に入ることを嫌ったようで、西方の蜀へと赴き、その地を治める劉璋によって、成都の県令に任じられました。
そして蜀においても、優れた行政官だとして評判を得ています。
劉備と戦うも、降伏する
やがて劉璋は、211年に荊州南部を手に入れた劉備を蜀に招き、敵対する張魯を討伐させようとしました。
しかし劉備は益州に滞在した後、これを奪取するべく、劉璋に対して攻撃を開始します。
この時、劉璋は李厳を護軍に任命し、緜竹において劉備を防がせようとしました。
緜竹には劉備に敗れた劉璋配下の諸将が集まっており、そこの指揮を任されていたのですから、李厳は劉璋から信頼されていたことになります。
しかし李厳は緜竹の軍勢を率い、劉備に降伏してしまいました。
これによって劉備の勢力がますます強大となったので、劉備はその功績に報いるため、李厳を裨将軍に任命しました。
こうして李厳は主を劉璋から劉備へと乗り換えて地位を得ましたが、利己的なふるまいであり、道義の面では問題のある行動だったと言えます。
昇進し、盗賊の大軍を撃破する
劉備が蜀を平定すると、李厳は犍為太守・興業将軍に任命され、地位が高まりました。
そして諸葛亮や法正らとともに、『蜀科』という法律の制定に携わります。
やがて218年になると、盗賊の馬秦や高勝らが、広漢郡の郪で反乱を起こしました。
彼らは民衆を集めて数万もの軍勢を組織し、李厳の管轄地である犍為郡の資中県にまで進軍してきます。
この時に劉備は、曹操軍と戦うために漢中に駐屯しており、不在でした。
そんな状況下で、李厳は新しく兵士を徴発せず、郡で管轄している五千の兵士のみを率い、賊の討伐に向かいます。
そして数倍の軍勢を備えた馬秦や高勝らを打ち破り、彼らの首を取りました。
この結果、賊の残党はことごとく逃亡し、みな元の民衆の立場に戻っています。
蛮族の軍を打ち破る
また、越巂郡の蛮族である、高定が軍勢を率いて新道県を包囲した際には、李厳は救援に駆けつけ、高定を打ち破って敗走させました。
このように、李厳は武将としても秀でた手腕を備えており、文武両道の人物だったのでした。
これらの功績によって、李厳は新たに輔漢将軍の官位を加えられ、引き続き郡太守を務めています。
蜀の中枢に参与するようになる
劉備は222年に呉に遠征しますが、夷陵の戦いに敗れ、撤退して永安宮に滞在するようになりました。
そしてそこに李厳を呼び寄せ、尚書令(政務長官)に任命します。
翌223年になると、劉備の病は重くなりましたが、この時に李厳に対し、諸葛亮とともに幼い劉禅を補佐するようにと、遺詔を授けます。
そして李厳は中護軍(近衛兵隊長)となり、内外の軍事を統括し、永安に止まって鎮撫に当たるようにと命じられました。
こうして李厳は蜀の政治の中枢に関わるようになりますが、劉備からの評価が高かったことがうかがえます。
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