周瑜とともに開戦を主張する
この時、周瑜は使者の役目を果たすために不在だったので、魯粛は孫権に、彼をすぐに呼び戻すことを勧めました。
そして周瑜が帰還すると、魯粛は彼とともに群臣の前で主戦論を述べ、議論の流れを一変させます。
魯粛たちは、曹操軍は大軍であっても、水戦を苦手とする北方の兵で構成されており、そのうえ慣れない気候によって疫病に苦しめられるはずだと、抱えている弱点を指摘しました。
そうして勝算が十分にあることを述べると、孫権が開戦を決定し、側にあった机を剣で斬ります。
そして「これ以上、曹操を迎えるべきだと申す者がいれば、この机と同様になる」と宣言しました。
赤壁で勝利する
孫権は周瑜を総司令官に任命し、魯粛には賛軍校尉(参謀長)として、周瑜を補佐する任務を与えます。
やがて周瑜と劉備は、赤壁で曹操と遭遇しました。
この時の戦力は二十万対五万と、大きく開きがありました。
しかし周瑜は黄蓋の策を用い、火計によってその船団を焼き払うと、劉備とともに追撃をかけて曹操を敗走させます。
こうして曹操の大軍を相手に勝利を収めると、魯粛はこれを知らせるため、まっさきに孫権の元に戻りました。
改めて孫権に帝王となることを求める
この時、孫権は部将たちを集め、魯粛を出迎えました。
魯粛が宮門を入って拝礼をすると、孫権は答礼をしながら言います。
「子敬どの、私が馬の鞍を支えてあなたを馬から下ろしたならば、あなのた功績を十分に顕彰したことになるだろうか」
魯粛は孫権の前に小走りに進み出て、「不十分でございます」と答えたので、人々はその非礼に、大変に驚きました。
魯粛は座につくと鞭を挙げ、「あなた様のご威光が全世界に及び、中華をひとつにまとめられ、帝王としての事業を完成し、その上で安車蒲輪(天子が賢者を召く時に用いる馬車)で私をお召しくだされば、はじめて私を十分に顕彰してくださったことになります」と言いました。
これを聞いた孫権は手のひらを打ち、楽しげに笑います。
魯粛はあくまでも、孫権を帝王にするために尽くしていることを、改めて示したのでした。
そしておそらく孫権は、赤壁で曹操に勝利したことによって、それを本気で考え始めたのだと思われます。
こうして魯粛と周瑜は、孫権が呉の皇帝になる道を切り開いたのでした。
劉備に荊州を与えるように促す
その後、周瑜と劉備は荊州南部の攻略に向かい、これを成功させます。
情勢が落ち着くと、劉備は孫権の元を訪れ、荊州の都督(統治者)にならせてほしいと求めてきました。
周瑜や呂範らは劉備を疑い、呉の地に引き留めるように孫権に進言します。
この時には魯粛だけが、荊州の土地を劉備に貸し与え、共同して曹操を退けるのがよいでしょう、と述べました。
すると孫権はすぐに魯粛の意見を採用します。
魯粛は、荊州では劉備への信望が厚いので、曹操に荊州を抑えられないようにするために、劉備に任せた方がよいと判断したのでした。
また、曹操に対抗するには呉の力だけでは足りず、劉備と、関羽や張飛など、彼が率いる強力な武将たちの力は欠かせないとも考えていたのです。
こうして劉備は荊州南部の統治を始め、根拠地を得ることに成功しました。
しかしこれが、後に大きな問題を引き起こすことになります。
周瑜が死去し、荊州の守りを引きつぐ
周瑜は江陵を攻略した後、南郡太守となって、荊州における呉の領地を守っていました。
そして孫権に益州をも攻略し、大陸の南半分を抑えて曹操に対抗する戦略を提案します。
孫権はこれに同意したのですが、周瑜は間もなく重病にかかり、計画を実行に移せぬまま亡くなってしまいました。
周瑜は重態になった際に、次のように遺言を残しました。
「荊州では曹操と敵対し、国境が定まっておらず、民衆はまだ十分に心を寄せていません。
どうか良将を選び、荊州の鎮撫に当たらせてください。
魯粛は知略に優れ、この任務にたえますので、私の後は彼に引きつがせてくださいますように」というのがその内容でした。
このため、孫権は魯粛を奮武校尉に任命し、周瑜が率いていた四千の兵と、彼の所領を継承させます。
こうして魯粛は友人のやり残した仕事を引きつぎ、多くの軍勢を率いる立場についたのでした。
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