魯粛 孫権を帝王にしようと図った、剛毅な人物の生涯

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荊州で勢力を伸ばし、将軍となる

魯粛はやがて、江陵から陸口りくこうに拠点を移し、周辺の地域を統治します。

するとその土地に、威令と恩徳が行き渡り、魯粛に従う者が増え、軍勢は一万以上に膨れ上がりました。

このように、魯粛は単なる策士ではなく、軍の指揮官や統治者としても優れていたのでした。

この功績によって漢昌太守・偏将軍に昇進します。

そして孫権に従ってかん城を攻略すると、横江将軍に転任しました。

こうして魯粛は、呉軍を主導する立場を確立したのでした。

劉備に龐統を用いるように促す

魯粛は荊州の統治を進める一方で、劉備陣営の強化にも協力しています。

劉備のところには、一時周瑜の配下になっていた龐統がいたのですが、初めは劉備に用いられませんでした。

このため、魯粛は劉備に、「龐統の才能は大きなもので、側近にすれば必ず役に立ちます」と起用を勧める手紙を送ります。

すると劉備は龐統とよく話し合い、彼の才能を認めて重用するようになりました。

このように魯粛は劉備に対して、好意的に接し続けています。

しかしやがて、それが裏目に出ることになりました。

劉備に出し抜かれる

この頃、益州では劉璋の統治が乱れていたことから、奪ってしまうべきではないかという意見が呉で持ち上がりました。

孫権が劉備に意見を聞くと、劉備は「劉璋と自分は、ともに漢王朝に連なるものですから、彼を攻撃するのはやめていただきたい」と返答をしてきます。

このために孫権は益州への攻撃を控えていたのですが、やがて劉備は呉を出し抜き、214年に益州を劉璋から奪ってしまいました。

劉備は密かに自分が益州を奪うつもりになっていたので、孫権をたぶらかしたのでした。

これを知った孫権は激怒し、「こすっからい賊めにだまされたわ!」と言い放ちます。

この時、劉備に益州を奪うように熱心に勧めたのが龐統であり、魯粛の好意は、呉のライバルを作ることに繋がってしまったのでした。

荊州が緊迫する

劉備は荊州の守りに関羽を残していきましたが、互いに疑心暗鬼になったことから、魯粛の勢力圏との境界で、紛争が多発するようになりました。

魯粛はこれに対し、友好的な態度を貫くことで、劉備と孫権が決裂しないように努めています。

裏切られた魯粛がそのようにふるまったのは、孫権と劉備が争い始めると、曹操につけこまれる可能性が高かったからでした。

曹操は依然として強者でしたので、弱者である孫権と劉備は、どこかで妥協して、相手を生かし続け、曹操を牽制するしかなかったのです。

そのような両者の関係性が、三国が鼎立ていりつする要因になりました。

荊州の三郡を確保する

今さら劉備から益州を奪うのは難しいため、孫権は荊州の劉備領のうち、長沙ちょうさ零陵れいりょう桂陽けいようの三郡を呉に譲るように求めました。

すると劉備は拒否したので、孫権は呂蒙りょもうに命じ、これらの郡に攻めこませます。

これに対し、劉備は自ら荊州南部の公安まで戻り、関羽を出撃させて三郡を守らせようとしました。

孫権は増援を送ってこれに対抗する一方で、魯粛には関羽の動きを抑えるように命じます。

関羽と会談する

魯粛は益陽に軍をとどめ、関羽と対峙します。

そして関羽に連絡をして、互いの軍を後方に控えさせた上で、指揮官たちだけで会談を行いました。

魯粛はこの場で関羽を責めます。

「わが主君が、慈愛の心をもって土地をあなた方に貸し与えたのは、あなた方が戦いに敗れ、身を立てる元手をお持ちでなかったからです。

いまは既に益州を手に入れられたのに、土地を返還しようというお気持ちがなく、三つの郡だけを返すように求めても応じていただけていませんが……」

魯粛が全てを言い終わらないうちに、関羽の幕僚が「土地は徳のある者の手に帰するのであって、いつまでも同じ人物のものだとは限りますまい」と言いました。

すると魯粛は声を荒げてその者を怒鳴りつけます。

この時の声と表情は、大変に厳しいものでした。

魯粛は荊州を劉備に貸し与えることに賛同し、裏切られる失策を犯してしまいましたので、ここは決して譲れない状況でした。

関羽は「これは国家の問題であって、そなたの関知することではない」と告げ、その幕僚を引き下がらせます。

こうして魯粛は関羽を相手にしても一歩も引かず、呉の正義を主張したのでした。

魯粛の言うことは道理が通っていましたので、関羽もあらがわず、この方面で大きな戦いが発生することはありませんでした。

魯粛は際どいところで均衡を保ったのだと言えます。

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