魯粛評
三国志の著者・陳寿は魯粛を周瑜と並べ、次のように評しています。
「曹操は漢の丞相という地位を利用し、皇帝を手もとに置き、その威を借りて群雄たちの掃討に努めた。
そして荊州を攻め落とすや、その勢いをかって呉の地に矛先を向けた。
この時、孫権に意見を申し述べる者たちは、国の前途を危ぶみ、確信を持つことができなかった。
そんな中で、周瑜と魯粛は他人の意見に惑わされず、明瞭に見通しを立て、人々から抜きん出た存在だということを示した。
これはまことに非凡な才能と言えるものである」
また、孫権は陸遜と話した際に、魯粛についてこう語っています。
「周瑜がむかし、魯粛を東方に招き、私の所に連れてきてくれた。
魯粛と語り合うと、話題はすぐに天下の大計と、帝王の事業に及んだ。
これが第一の愉快なことであった。
その後、曹操が荊州の軍勢を手に入れた勢いに乗って、数十万の軍勢を率いて長江を下ると、過大に言いふらした。
私が部将たちを集めてどのように対処するべきかをたずねると、誰も進み出て答えるものがない。
そして張昭たちは、使者を送って曹操を迎え入れるのがよい、などと言った。
子敬はすぐにそれが不可であることを述べ、私に勧めて、急いで周瑜を呼び戻し、彼に軍勢を委ねて迎え討たせるのがよいと言った。
これが第二の愉快なことであった。
しかも彼が定める計略には、張儀や蘇秦(戦国時代の優れた策士)の策謀をはるかに越える配慮が込められていた。
のちに劉備に荊州の土地を与えるように勧めたが、この一つの失策は、彼の二つの立派な行いを損ずるほどのものではない。
周公(古代の賢者)は一人の人間に、万能が備わっていることを求めなかった。
それゆえに私は、彼の落ち度を忘れ、優れた点を尊重し、つねづね彼を鄧禹に比してきたのだ」
鄧禹は後漢を建国した光武帝・劉秀の臣下です。
劉秀は初め、更始帝の傘下に入っており、自分が皇帝になるつもりはありませんでした。
しかし鄧禹が漢の王室を復興し、皇帝になることを勧めたので、その志を大きくし、後漢を立てることになったのです。
この評価から、孫権は自分にとっての鄧禹が魯粛だったのだと考えていたことがわかります。
魯粛は初めから孫権を帝王にするという目的を持ち、そのために一貫した行動をとったという点が、際だって優れています。
こうした意識を持っていたのは、他には周瑜のみであり、ゆえにこの二人が順次、呉を代表する人物になったのでした。
劉備陣営の思惑を見抜けなかったのは失策でしたが、孫権が言うとおり、それによって魯粛の功績が全てだいなしになるわけではありません。
魯粛もまた、周瑜や諸葛亮と並び、三国時代を現出させる上で、重要な役割を果たした人物なのだと言えます。