劉備が譲ってことが収まる
荊州の帰属の問題はなかなかに複雑で、まず、孫権の側は劉備に貸し与えていたつもりでした。
しかし劉備の側は、曹操の撃退や荊州の攻略は自分たちと共同で行ったのだから、荊州の一部を自分たちが統治する権利はある、と考えていたのです。
それに、荊州はもともと孫権の土地だったわけではありませんので、領有権の主張に、強い正当性はありません。
孫権にしても劉備にしても、これから曹操と戦う上で、多くの領地を持っているにこしたことはなく、両者の主張は平行線をたどりました。
これに決着がついたのは、曹操が動いたからです。
曹操は孫権と劉備がもめていた215年に、益州北部にある漢中に攻めみます。
そうなると、漢中からそのまま益州内部に攻め入ってくる可能性があるので、劉備は荊州に多くの軍勢を配置しておくことができなくなりました。
このため、孫権の要求通りに三郡を譲ることにし、紛争を終結させています。
こうして荊州は北を曹操が、南東を孫権が、南西を劉備が抑え、三者の思惑が錯綜する地域になりました。
これによって魯粛はだいぶ失態を取り戻せましたので、この決着にほっとしたことでしょう。
結局のところ劉備への対応は、彼を警戒していた周瑜の方針の方が正しかったのでした。
魯粛は劉備を手懐けられると思っていたようですが、そんなに甘い人間ではなかったのです。
やがて死去する
こうして魯粛は荊州における勢力の確立を果たした後、217年に46才で死去しています。
魯粛が率いていた軍勢は、呂蒙が引きついでいます。
孫権は魯粛のために哭礼(声をあげて泣く葬礼)を行い、葬儀に臨席しました。
そして諸葛亮もまた、彼のために喪に服しています。
孫権は後に呉の皇帝に即位しますが、その際に「魯子敬どのはこうなるだろうと申したことがあったが、事の成り行きが見える人物だったと言えよう」と称賛しました。
これは魯粛の死から12年後の、229年のことです。
魯粛が考えたように、孫権が劉邦ほどの存在になることはありませんでしたが、帝王にするという目的は、ひとまず実現したのでした。
飾り気のない人柄
『呉書』という本には、魯粛は次のように紹介されています。
魯粛はその人となりは謹厳で、自分の身を飾ることには興味がなく、生活は質素なものだった。
そして軍の指揮は厳正で、賞罰は誤りなく行われた。
軍旅の間にも書物を手放すことがなく、談論が巧みで、文章が上手だった。
そして思考の射程が長く、人並み外れた洞察力を備えていた。
周瑜の亡き後は、魯粛が呉を代表する人物だったのである。
魯淑が後を継ぐ
魯粛の家督は、子の魯淑が継ぎました。
260年ごろに昭武将軍に就任し、武昌の督(統治者)となって、荊州の守りについています。
そして仮節(裁量権)を授かり、夏口の督にもなりました。
任地では厳正な統治を行い、物事をとどこおりなく処理していく能力があったとされており、父に似た人物であったようです。
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