西郷や大久保をたしなめる
西郷の親友であった大久保利通は、お由羅騒動の影響で父が追放されており、このために役職を得ていませんでしたが、斉彬が藩主となって2年後に許され、藩政への参加を志すようになります。
そしてある時、西郷と大久保は、斉彬に対して藩政改革の建言を行いました。
幕府の賛同を得た上で、守旧派の権臣を取り除き、一大改革を実行すべきです、というのがその主張でした。
これに対し、斉彬は密かに彼らに書簡を送ってたしなめます。
斉彬は「二人の主張はもっともだが、時と場合を考えなければ、善事がかえって悪い結果をもたらすことになる。内紛を引き起こせば薩摩藩の不和が外部に知られ、私は父の重臣を排斥する親不孝者だとそしられることになる。そうなれば薩摩藩の名誉は傷つき、国政に対する発言力も失うだろう」と返事をし、両者に自重を促しました。
この斉彬の見識に両者は感服し、ともに度量のある判断を心がけるようになっていきます。
それが後の西郷の幕府軍との和睦や、大久保が久光に仕え、薩摩藩の主導権を握らんとした活動にも、つながっていったものと思われます。
公武合体や開国を主張する
斉彬は賢君として知られた松平慶永や山内容堂、伊達宗城(むねき)らとともに国事に携わるようになり、阿部正弘に対して幕政改革を行うようにと主張します。
斉彬は積極的に通商を行い、西洋の技術を取り込んで日本の国力を強化し、その脅威に対抗すべきだと考えていました。
また、幕府と朝廷が一体となって日本を統合し、諸藩がこれに協力して挙国一致の体制を作るべきだという、公武合体の方針を主張しています。
斉彬はこうした方策の実現のため、西郷を自らの手足として京や江戸で活動させており、このために西郷は京の政界や、諸藩の志士たちの間で知られる存在となっていきます。
また、斉彬はフランスからの兵器の購入を計画し、阿部正弘の内諾を得て使者を派遣するなどの措置も取っており、具体的に武装を強化するための計画を立てました。
これは実現しませんでしたが、斉彬の死後に薩摩藩はイギリスとの関係を構築し、最新鋭の兵器を備えていくことになります。
将軍の継嗣問題に関与する
この頃の将軍は13代目の徳川家定でしたが、病弱な人物で、国難に対処できるような能力は備えていませんでした。
このため、英明であるとの評判が立っていた、一橋慶喜を家定の後継者にするべきである、という擁立運動が発生することになります。
斉彬は盟友である阿部正弘や松平慶永とともに、この運動を推進しました。
そしてその一環として、島津氏の一族から姫を将軍の正室として送り込むことを計画します。
篤姫を将軍の正室として送り込む
一橋慶喜は水戸藩主・徳川斉昭(なりあき)の子でしたが、大奥(将軍に仕える女性たちの集団)から徳川斉昭は嫌われていました。
これは徳川斉昭が好色で、大奥に入り込んで女官に手を出そうとしていたことが知られていたことや、倹約主義者であったことで、華美な生活を好む大奥の女性たちから反発を受けていたことに原因がありました。
このため、一橋慶喜を将軍に擁立するのは困難だったのですが、斉彬は大奥の情勢を変えるため、島津氏から正室を送り込み、大奥の水戸藩への感情を和らげる工作を行おうとします。
一族から敬子という姫を選び、関白の近衛家の養子とした上で篤姫(あつひめ)と名前を変え、将軍・家定の正室として迎えられるように働きかけました。
これに阿部正弘が応じて幕府内で周旋を行い、この策を実現させます。
こうして篤姫は将軍の正室として、大奥に入ることになりました。
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