荊州に滞在する
荀攸はこの後、辞職して故郷の頴川に戻っています。
その後、再び召還されて兗州・任城の相(統治者)に任命されましたが、引き受けませんでした。
当時の兗州は曹操と呂布が争い、荒れ果てていましたので、そのような地に赴任することを、荀攸は望まなかったのでしょう。
荀攸は益州の地勢が堅固で、住民も豊かなことから、戦乱を避けるのによいだろうと考え、蜀郡の太守になることを望みました。
しかし益州もまた混乱の渦中にあり、交通が途絶していたため、その手前にある荊州に、留まらざるを得なくなります。
この頃、益州は劉焉が統治していましたが、もしも荀攸が無事にたどりついていたら、彼やその子の劉璋に仕えるようになっていたかもしれません。
曹操に招かれる
196年になると、曹操が献帝を迎えて保護し、荒れ果てた洛陽にかわって、許を新たな都にします。
その頃、曹操は腹心の荀彧に対し、「君にかわって策を立てられる人材はいるかね?」とたずねました。
すると荀彧が「甥の荀攸と、鍾繇が適任です」と答えたので、曹操は荊州にいる荀攸を、呼び寄せようと書簡を送ります。
「ただいま、天下は大いに乱れ、智謀の士が心を働かせる時である。それなのに、蜀の地で情勢を観望するのが、ずいぶんと長すぎるのではないか?」というのがその内容でした。
荀攸はこれを受け、朝廷に復帰することにします。
おそらくは荀彧もまた、それを促す書簡を送っていたのでしょう。
荀攸が許にたどり着くと、汝南太守に任命され、ついで尚書(政務官)となり、再び中央の政治に関与するようになります。
【荀攸を招いた曹操 以後、非常に信任するようになる】
曹操の軍師となる
曹操は荀攸がやって来ると、かねてよりその名声を知っていたので、期待をしつつ二人で話をします。
その後で荀彧と鍾繇に向かい、「荀攸は並外れた人物だ。彼と事を図ることができれば、天下には何も憂えることはない」と絶賛しました。
そして荀攸を軍師に任命し、作戦を相談するようになります。
曹操もまた軍略に秀でた人物でしたが、その曹操から絶賛された荀攸は、非常に優れた、策士としての才能を持っていました。
張繡征伐に随行する
198年になると、曹操は張繡の征伐に向かい、荀攸はこれに随行します。
張繡は荊州北部に駐屯し、劉表と同盟関係にありました。
このため、荀攸は曹操に対し、次のように意見を述べます。
「張繡と劉表は互いに助け合っており、このために強力です。
しかし、張繡は劉表に食糧を頼っており、もしも劉表が食糧を供給できなくなれば、すぐに離反するでしょう。
今は出撃を見合わせ、両者が仲違いする機会を待ち、こちらに勧誘するのが得策です。
もしも厳しく攻めかかれば、彼らは助け合って抵抗してくるでしょう」
曹操は助言を聞かず、敗北する
しかし曹操は荀攸の意見に従わず、そのまま進軍して張繡と交戦します。
この時点では、まだ荀攸を信頼しきってはいなかったのでしょう。
そして張繡が追いつめられると、荀攸の予想通りに劉表が救援したため、勢いを盛り返され、曹操は敗北してしまいました。
曹操は荀攸に「君の意見を用いなかったから、こんな羽目になってしまったわ」と言って後悔します。
その後、曹操は奇襲部隊を編成して張繡を再度攻撃し、今度は勝利を得ることができました。
呂布への攻撃を主張する
この頃、曹操は西に張繡と劉表、東に呂布を敵として抱えていました。
張繡らを叩いた後、呂布を討伐しようと計画しますが、臣下たちの間で議論が発生します。
その中で、張繡と劉表が背後にいるのに、呂布を攻撃するのは危険だと主張する者たちがいました。
これに対し、荀攸は反論します。
「張繡と劉表は敗北したばかりですので、いまは動くことができない状況にあります。
一方、呂布は勇猛である上に、袁術を後ろ盾にしています。
彼が淮水や泗水のあたりで思うように暴れ回れば、周囲の豪傑たちがこれに呼応し、勢力を拡大するでしょう。
しかしいまは徐州をまとめきれておらず、人々の気持ちは一つになっていませんので、撃破することが可能です。
いまこそ呂布を討つべき時です」
曹操は荀攸の意見を採用し、呂布を討伐するため、徐州に遠征しました。
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