上洛の開始
1568年になると、上洛して将軍の地位につくことを望む足利義昭は、それまで頼っていた朝倉義景を見限り、信長の領地に移動しました。
義景は覇気の乏しい人物で、越前では朝倉氏の勢力が分裂気味になっていたことから、ほとんど外征をすることがありませんでした。
義昭に頼られても上洛を実行できる実力がなく、このために見限られたのです。
一方で信長は義昭を美濃に迎え、上洛の大義名分を得ることに成功しました。
この年の9月に、信長は6万という大軍を発して美濃を出発し、長政はこの軍勢に合流します。
そして義昭を護衛しながら進軍しました。
六角氏の滅亡
六角氏は信長の要請に応じず、南近江で軍勢を集めて上洛を阻止しようとします。
信長は巧みな作戦で六角氏の裏をかき、わずか数日でその勢力を南近江から駆逐しました。
六角義賢・義治親子は甲賀に落ち延び、この時に戦国大名としての六角氏は滅亡しています。
こうして信長は、浅井氏が長年戦い続け、時には従属させられた六角氏を、あっさりと攻め滅ぼしてしまいました。
長政は信長の実力を思い知り、自分の選択が間違いではなかったと思ったことでしょう。
しかしこの友好関係は、長く続くことはありませんでした。
信長の朝倉攻め
信長は上洛を果たした後、畿内周辺の諸勢力の討伐や従属化を進めていきました。
そして朝倉義景にも上洛し、将軍になった義昭に従うようにと要求します。
しかし信長と仲の悪い義景はこれに応じず、やがて信長は討伐を計画します。
これを実行すれば長政との約束を破ることになりますが、既に同盟を結んで数年がたっており、長政とは友好関係が続いていたことから、落ち目の朝倉氏を見捨てて自分についてきてくれるだろうと考えていたのかもしれません。
これは想像ですが、おそらく長政個人は朝倉氏を軽視する姿勢を、信長に見せていたのだと思われます。
先に述べた通り、長政は六角氏と戦っている間に一度も朝倉氏に支援を要請したことがなく、関係を持つことを嫌っていた節があるからです。
関わりを持つと、六角氏に代わって朝倉氏が主家のような存在になってしまい、長政が目指す浅井氏の独立が脅かされる可能性がありました。
このため、意識的に朝倉氏との関係を深めることを避けていたのでしょう。
しかし浅井氏は長政の意志だけですべてを動かせる勢力ではなく、この点が信長の計算違いを引き起こします。
信長自身は織田氏の全権を掌握し、思いのままに動かせる体制を作り上げていましたので、そのあたりの想像がついていなかったのかもしれません。
信長はやがて家康とともに越前の金ヶ崎城を攻め、間もなくこれを占拠しました。
浅井氏の対応
この知らせを受けた浅井氏の家臣たちは、隠居していた久政を担ぎ出し、長政に信長を攻撃するようにと迫ります。
今度は六角氏への独立を図った時とは、逆の展開になりました。
この時には信長との同盟の手切れを求める家臣の方が多かったようで、長政はこの意見を退けることができませんでした。
信長が同盟締結の際の約束を破ってしまったため、信用に値しないとする意見には説得力があり、抑えきるのが難しかったのだと思われます。
家臣たちの意見に押される形で、長政は信長との手切れを決断します。
この時の長政はまだ25才で、このあたりは若さゆえの統率力の弱さが出たと言えるでしょう。
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